母の杖と自立の教え
キッチンで発見した見知らぬ物体
あるとき、実家に帰ってキッチンで母の手伝いをしようとすると、見知らぬ物体を発見した。
キッチンとリビングを仕切る、食器棚代わりの両面ハッチの端っこに、大きなクリップが取りつけられている。「これ、なに?」と聞くと、母がにまっと笑った。「こうするのよ」と、室内でついている杖をそこに立てかける。
ただ置くだけだとすぐにすべり落ちてしまう杖が、クリップによって支えられ、倒れないというしくみだ。
母は、こんな小さな工夫が得意だ。
側弯症という、本来ならまっすぐに並んでいる脊椎が左右に曲がってしまうという病を得て5年ほどになる。
少しずつ、背中が曲がってきたな、とは感じていたけれど、歳なんだから仕方がないのかな、程度にしか思っていなかった。
コロナ禍で、実家に帰れない日々が続き、2年ぶりに会ったとき、その背中の曲がりがより進んでいて驚いた。
けれど、ちょうど同時期に肩に人工関節を入れる手術が決まっていた。そっちの方が一田家では一大事だったのだ。
手術は無事成功し、退院後張り切ってリハビリに通っていた。理学療法士の先生が、ちょっとイケメンで優しくて、母はその先生のことが大好きだったよう。
新しいボトムを買ったりと準備を整えてはいそいそと出かけていく姿を、「なんだか恋する少女みたい」とププっと笑いながら眺めていたものだ。
ところが、しばらくして、腰や足の痛み、しびれなどの症状が出るようになった。側弯症の深刻性が表面化したのだ。一時は激痛が走って、あの気丈な母が「こんなに痛いならもう生きていたくない」と弱音を吐いたほどだ。
電話をするたびにつらそうで、胸がつぶれる思いだった。体が痛い、つらい、というときに、どうしてあげることもできない……。でも、そんなときでも「どうにかしなくちゃ」と自分たちでなんとか解決策を模索して動くのが、我が父と母の強さだと思う。
親でも子どもでも、自分にしかできないことがある
激痛を抱えながら、ずっと通っていた整形外科の先生から、大学病院を紹介してもらった。でも、症状は改善しない。そこで、さらにペインクリニックを紹介され、そこでブロック注射をしてもらうことで、やっと痛みがなくなり、通常の生活ができるようになった。
その報告を受けて、ほっと胸をなでおろした。今でも母は父に付き添われて、1か月に一度ブロック注射に通っている。
体の具合が悪いとき、何が原因なのかを突き止めるだけで大層時間がかかる。こっちがダメならあっちの病院、あっちがだめならまた別の病院とさまよい、やっと「自分を治してくれそう」な先生に巡り会う。それまでの期間のつらそうなこと……。
なんとか原因を探って、痛みを取り除き、ラクになりたい。そう思うのは当然のことといえば当然なのだが、父も母も、私たち子供に頼ることなく、80歳を過ぎてからも自分たちで、その「あっちこっち」をやってのける。
考えて悶々とするよりも、行ってみれば何か見つかるかもしれない。診てもらわないと解決できない。だから、考える前にとっとと行動する。私は知らず知らずのうちに、そんな姿に「誰かにやってもらうのではなく、問題を解決するのは自分自身」ということを教えられた気がする。
20歳で結婚し、21歳で私を産んだ母は、ベタベタと子供に接するのが苦手な人だった。
幼い頃、熱を出しても甘やかしてはもらえなかった。もちろん、氷枕を作ったり、おじやを作ったり、りんごをすりおろしてもらった記憶はある。でも「できることは自分でしなさい」という母だった。
私が反対を押し切って結婚をし、家を飛び出し、案の定うまくいかなくて離婚するときにも「だったら、帰っておいで」とは言われなかった。
だからこそ私は「自分で選んだ道なんだから、自分でなんとかしなくちゃ」と、フリーライターの道を歩き出したのだ。あそこで「帰っておいで」と言わずにいてくれたことを、本当に感謝している。
親は子供の心配をする。でも、「なんでもしてくれる」存在ではない。何かあったとき、いちばん心配してくれる存在なのは確かなことだ。
けれど、親でも子供でも、自分でしなくてはいけないこと、自分でしかできないことがある。その境界線のようなものを、私はことあるごとに、肌感覚で教えてもらってきた。
私は優等生体質で、気にしいで、人の言葉にすぐ傷つく……。そんな弱さを持ちながら、最後の最後には、どうにか自分の足で立たなくちゃと踏ん張ることができるのは、両親のおかげだなと思う。
今、自分たちで病院巡りをする父と母の姿を見ていると、私はこのふたりに、強さを与えてもらったんだ、とようやく気づいた。
杖をつくようになって2年。去年母は杖を買い替えた。今までより長くなった杖は、持っていると自然に背筋が伸びるのだと言う。
「そうしたら、お腹の筋肉が鍛えられて、体を支えることができるんだって」と母。
ただしその分、体が疲れるそうだ。でも、毎日ちょっとずつつらくても、自分の体のポテンシャルを引き出すことを選んだらしい。
クリップに立てかけられた杖は、まだまだこれから自分らしく生きようとする母の強さを告げているようにも見えた。
本記事は『父のコートと母の杖』(主婦と生活社)からの抜粋です
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編集ライター・一田憲子さんが父と母を綴る初めてのエッセイ
昭和のモーレツ会社員で、バリバリ仕事をしてきた父。専業主婦としてそれを支えてきた母。いつまでも元気だと思っていた両親が、80代、90代になり、娘である自分がケアをしなくてはいけなくなったとき──。現在進行形で老親と向き合う一田さんの実体験を綴った、新境地となるエッセイです。
「だんだんと体力が衰え、できないことが増える。自分の親にその『年齢』がやってきていることを知ったとき、訪れたのは「恐怖」だった。父や母が弱っていくことがイヤだ。いつまでも元気でいてほしい。もしそうでなくなったら、いったいどうしたらいいのだろう。そんなジタバタを経て、『老い』を受け入れなくては仕方がない、と理解し始めたときから、私は父や母と出会い直してきた気がする」(はじめにより)
〈著者/一田憲子〉
一田憲子(いちだ・のりこ)
1964年生まれ。編集者・ライター。OLを経て編集プロダクションに転職後フリーライターとして女性誌、単行本の執筆などを行う。企画から編集、執筆までを手がける『暮らしのおへそ』『大人になったら、着たい服』(ともに主婦と生活社)を立ち上げ、取材やイベントなどで、全国を飛び回る日々。別冊天然生活『暮らしのまんなか』(扶桑社)の編集も手がける。『すべて話し方次第』(KADOKAWA)、『歳をとるのはこわいこと?』(文藝春秋)ほか著書多数。暮らしのヒント、生きる知恵を綴るサイト「外の音、内の香」主宰。ポッドキャスト番組「暮らしのおへそラジオ」を配信中。
http://ichidanoriko.com