失った猫の記憶がよみがえる雨の日
心のどこかに、いつもずっとある……。
だけど、思い出すと、苦しくなってしまうから、そっと胸の奥にしまいこんでいるもの。
それは、永眠してしまった猫との記憶。
「もういない」ということをいつまでも受け止めきれなくて、知らず知らず忘れようとしている私に、それでも、「ここにいるよ」と猫がノックしてくれることがあります。
我が家の場合は雨の日。
かつて多頭飼い崩壊のお家から来てくれた、膀胱麻痺の猫「イレーネ」。彼女は、つねにおしっこをおもらししてしまう子で、ある日、水を飲んでいたキッチンの流し台にも、盛大におしっこをもらしました。
「水場だから大丈夫だろう」と軽い掃除ですませたのですが、イレーネが亡くなり二年が過ぎた今でも、雨の日になると、キッチンがふんわり、おしっこのにおいがするのです。
最初はなぜおしっこのにおいがするのか分からず、誰か、今生きている子が粗相をしてしまったのかとあちこちを探しましたが、そうじゃない。イレーネの忘れ形見でした。
我が家では、気がつけばいつも保護した子がやってくる状態で、誰かが亡くなっても、また新たな命が家族に加わっています。
そんな状況に、ふと、自分は冷たい人間なんじゃないかと思うことがあります。
大切な我が子が亡くなったのに、舌の根も乾かないうちに新しい子を迎え入れるなんて。前の子をもっと偲ぶべきじゃないの? と。
だから、新しい子を「かわいい」と思うたびに、亡くなった子に申し訳ない気持ちでいっぱいになるのです。
そして、その子を愛しぬけたのかすら、不安になることがあります。
新しい猫を迎える時の気持ちの葛藤
そんな私に、SNSのある記事は気づきを与えてくれました。
投稿者はペットの火葬場があるお寺の住職さん。訪れる方が飼っていた子を火葬場で骨にしてもらうのを待っている間、そのお寺では野良猫たちがふらふらと闊歩しているのだそうです。
すると、それを見た火葬に来た方が、何を思うのか、その子たちを我が子に迎え入れることを決め、連れ帰る場面に何度も出くわしたのだとか。
きっと、我が子を亡くし、まだ心が張り裂けそうな時期でしょう。もしかしたら、元気な猫を見ているだけでもつらいと思うかもしれません。
それでも、手を差し伸べたくなるのは、きっと、「欠けた穴を埋めるため」なんていう自分勝手な理由ではないと思うのです。
自分も、この子たちも、同じ「孤独」を抱えている。
身寄りのない子を少しでも助けたい。この子たちの「お家」になりたい。
空っぽだったキャリーケースに、帰りの道にはお寺の子を入れて、帰路につきます。茜空は高く、どこまでも澄み、腕の中の重みに、はじめて季節のにおいを感じるのかもしれません。
家に帰って、誰も食べることのなくなってしまっていたキャットフードをお皿に出し、嬉しそうにほうばる新しい猫を見て、よみがえるのは亡くなってしまった子のぬくもり。
新しい猫が来ても、亡くなった猫への愛が消えるわけじゃない。むしろ思い出のスイッチとなって溢れ出す。
そうして新しく来た猫がいっぱい記憶の宝箱を開けてくれて、いつか、その子も永遠に瞳を閉じるまで……。かつての子の思い出の上に、新しい思い出を何回も何回も折り重ねてくれればいいと思うのです。
「ペットの死」という絶望に飲まれてしまわないように。新しい子が、はたまた前の子の小さな忘れ形見が、私たちをこの世につなぎとめてくれる。
そうして私たちは、喪失とともに生きていく力を手に入れるのかもしれません。
咲セリ(さき・せり)
1979年生まれ。大阪在住。家族療法カウンセラー。生きづらさを抱えながら生き、自傷、自殺未遂、依存症、摂食障害、心の病と闘っていたところを、不治の病を抱える猫と出会い、「命は生きているだけで愛おしい」というメッセージを受け取る。以来、NHK福祉番組に出演したり、全国で講演活動をしたり、新聞やNHK福祉サイトでコラムを連載したり、生きづらさと猫のノンフィクションを出版する。主な著書に、『死にたいままで生きています』(ポプラ社)、『それでも人を信じた猫 黒猫みつきの180日」(KADOKAWA)、精神科医・岡田尊司との共著『絆の病──境界性パーソナリティ障害の克服』(ポプラ社)、『「死にたい」の根っこには自己否定感がありました──妻と夫、この世界を生きてゆく』(ミネルヴァ書房、解説・林直樹)、『息を吸うたび、希望を吐くように──猫がつないだ命の物語』(青土社)など多数ある。
ブログ「ちいさなチカラ」