8月に見送った猫、トトのこと
涙を流しながら目を覚ましました。
見ていたのは、8月に亡くなってしまった「トト」の夢。トトが知らない学校で飼われていて寂しくしているのです。「連れて帰っていいですか?」と、必死の思いでお願いをしながら、トトの懐かしい柔らかな毛を撫でました。
実は、私は今まで、亡くなった猫の夢をあまり見たことがありません。
夢でもいいから会いたいのに、見るのは日常の延長のようなできごとばかり。いつもさみしい気持ちでいました。
なのに、トトだけは、不思議なくらい私の夢に何度も登場します。
やっぱり気になって、インターネットで「死んだ猫が夢に出てくる」などと検索をかけてみました。ほとんどがスピリチュアルなサイト。猫からメッセージがある、とか、いいことが起こる前兆、とか、どれも飼い主さんを励ましてくれるものなのですが、同時に書かれてあるのです。
〈猫の霊を引き留めてはいけませんよ。もうあなたの手から離れているのだから〉
「なぜトトだけ?」という疑問に行き当たりました。
最期の時を一緒に過ごした思い出の猫
思いつくのは……
トトは、最期の時間を、ずいぶん長く一緒に過ごしてくれたということ。
もう固形物を食べられなくなってからも、ササミやホタテを煮だしスープにしたものを嬉しそうに口にし、それも無理になっても、喉が乾いたら小さく鳴いてお水のおねだりをしました。
「そんなに長くは生きられないかもしれない」
そう覚悟していたこともあって――。私も夫も、仕事をまったくしないと決めました。
買い物すら、片方だけ出て一瞬で大量に仕入れ、もう動けなくなったトトのそばで、ずっとゴロゴロしていました。
起きているときも、ふと眠ってしまっても、目の前にはトトがいる。私たちの日々はトトで溢れていました。
最期の夜。
どこか感じるものがあって、二人ともほとんど眠れませんでした。ただただ、トトに「ここにおるよー」「大丈夫やよー」と繰り返し、体を撫でました。
やがて差しこんでくる桃色の朝の光。
「トト、朝が来たよ。今日が来たよ」
「ありがとう。今日を一緒に迎えてくれてありがとう」
トトは、一度も苦しがることなく、そのままゆっくりと呼吸をしなくなりました。
それはまるで、「いつ死んでしまったのか分からない最期」でした。
だから――
きっと、私の中で、トトはまだ生きているのだと思います。
スピリチュアルな言葉より、猫を愛する仲間の言葉を信じたい
スピリチュアル系のサイトを見ると書いてあることがあります。
〈いつまでもその猫のことを思うと、猫が成仏できないことも〉
そのたびに不安になります。自分のトトへの愛が、トトのしあわせの足を引っ張っているのではないかと。
だけど、トトの夢のことをSNSに書くと、猫と暮らす方が言ってくださりました。
〈きっと、会いに来てくれたんですよ。セリさんが彼を想うのと同等か、それ以上に、彼もセリさんを想っていて、故に会いにくるのだと思います。いい男だぜ、トト!〉
心が軽くなりました。ああ、私の愛がトトを縛っているんじゃない。トトも私を愛してくれていたんだな、と。
スピリチュアルな言葉は、時に人を救いながら、追い詰めます。
そんなとき、同じようにただ猫を愛する仲間がくれる言葉が何よりの力になります。
SNSには、毎日のように亡くなった猫ちゃんの報告があります。そしてその数と同じだけ、その方を励ます書き込みが。
人間は、専門的な知識がなくても、人間を救える。
誰もが、誰かのセラピストなのです。
咲セリ(さき・せり)
1979年生まれ。大阪在住。家族療法カウンセラー。生きづらさを抱えながら生き、自傷、自殺未遂、依存症、摂食障害、心の病と闘っていたところを、不治の病を抱える猫と出会い、「命は生きているだけで愛おしい」というメッセージを受け取る。以来、NHK福祉番組に出演したり、全国で講演活動をしたり、新聞やNHK福祉サイトでコラムを連載したり、生きづらさと猫のノンフィクションを出版する。主な著書に、『死にたいままで生きています』(ポプラ社)、『それでも人を信じた猫 黒猫みつきの180日」(KADOKAWA)、精神科医・岡田尊司との共著『絆の病──境界性パーソナリティ障害の克服』(ポプラ社)、『「死にたい」の根っこには自己否定感がありました──妻と夫、この世界を生きてゆく』(ミネルヴァ書房、解説・林直樹)、『息を吸うたび、希望を吐くように──猫がつないだ命の物語』(青土社)など多数ある。
ブログ「ちいさなチカラ」