保護したとき、顔が曲がり、歯がほとんどなかった
「この子は、産まれて何か月の子猫でしょうか?」。猫エイズと猫白血病の猫「あい」を保護し、動物病院に最初に連れていったとき、私がそう訊いたのは、あいの歯がほとんどなかったからでした。
1本だけ残った下の歯が突き出し、くしゃみをするたびベロがぺろんと飛びだす。そのうえ、まるで誰かに硬いもので殴られたように、顔は曲がっていました。
獣医さんは、それを見て「虐待の可能性」という言葉を出しました。あれから長い年月が経った今、SNSを見ていると、毎日のようにタイムラインに動物虐待の情報が流れています。事件として扱われる大きなものもあれば、警察に連絡しても、見過ごされてしまうようなむずかしいラインのものもあります。
動物虐待が起きないようにするために、私たちにできること
この間、ふと目にした記事は、災害級の大雨の中、狭いケージに入れられ外に出されたまま、そのケージに飲み水も入っていない犬の話でした。鳴り止まない雷。吹きすさぶ風。横殴りの雨。それに打たれながら、犬は隠れる場所もなく震えていました。
誰かの家の飼い犬のはず。思うのです。その誰かの家には、子どもはいないのでしょうか。もしいたら、親が犬にそんな仕打ちをしてとき、動物の命を軽んじていいと思い違いをしてしまわないでしょうか。
さらに想像はふくらみます。その家の子どもは、親から、十分な愛情を受け取っているのかと。犬と同じように、ただ身を置く場所だけを与えられ、成長するために必要な「愛されること」「愛しかた」を教わらずに育ってしまうのではないかと。
猫の里親になってくれた、夫婦の話
あいを迎え入れて少ししたとき、私の母が5匹の子猫を保護しました。それぞれに一生の家族を探し、巣立っていったうちの1匹の子猫は、子どものいない若い夫婦のもとに迎え入れられました。
子猫は我が子同然にかわいがられ、やがて、夫婦に子どもが生まれました。
血を分けた子が生まれても、その夫婦の猫への愛情は変わりませんでした。猫も人間の子どもも、我が子として愛し、一緒に平等に育て、子どもは、猫を自分の兄弟だと思うほどあたりまえにその存在を愛しました。そして、猫からありあまる愛を受け取りました。
その子は、発達障がいを抱えていました。人の顔が実の親ですら覚えられず、文字の読み書きも苦手でした。ですが、親から、そして猫から、愛されることを知っていました。心は満たされていました。さらに猫を、「ただの動物」として見るのではなく、身近なかけがえのない命として、最大限に愛を注ぎました。
その子は成長し、現在、動物医療にかかわる学校への受験を考えています。障がいがある分、道のりは険しいことでしょう。それでも、晴れて合格すれば、どんな人より純粋に動物の命を守る人生を歩めるのではないかと思うのです。
親が動物を愛し、それを見た子どもも動物を尊敬する。そんな優しい循環が生まれれば、この世に虐待なんてなくなるはず。
第二のあいが生まれないように――動物と育つ人生を、これからの子どもたちに届けられたらと、悲しい事件を目にするたび切に願うのです。
咲セリ(さき・せり)
1979年生まれ。大阪在住。家族療法カウンセラー。生きづらさを抱えながら生き、自傷、自殺未遂、依存症、摂食障害、心の病と闘っていたところを、不治の病を抱える猫と出会い、「命は生きているだけで愛おしい」というメッセージを受け取る。以来、NHK福祉番組に出演したり、全国で講演活動をしたり、新聞やNHK福祉サイトでコラムを連載したり、生きづらさと猫のノンフィクションを出版する。主な著書に、『死にたいままで生きています』(ポプラ社)、『それでも人を信じた猫 黒猫みつきの180日」(KADOKAWA)、精神科医・岡田尊司との共著『絆の病──境界性パーソナリティ障害の克服』(ポプラ社)、『「死にたい」の根っこには自己否定感がありました──妻と夫、この世界を生きてゆく』(ミネルヴァ書房、解説・林直樹)、『息を吸うたび、希望を吐くように──猫がつないだ命の物語』(青土社)など多数ある。
ブログ「ちいさなチカラ」