• 子育ての悩みや日常生活のちょっとしたイライラ、みなさんどんな風に解決していますか。京町家に家族4人で暮らし、洋服づくりを手がける美濃羽まゆみさんは、仕事に家事に忙しい毎日も自分のペースでごきげんに楽しんでいるようです。個性豊かな子どもたちとの向き合い方や日々の小さな心がけ、気持ちの整え方……。美濃羽さんが日ごろから大切にしていることをお聞きして、“ごきげんに暮らすヒント=ごきげんスイッチ”を探っていきます。今回はご自身の子ども時代の体験から、子どもの小さなSOSに全力で対処するようになったという美濃羽さんに、子どもの見守り方と手助けで大切にしていることを教えていただきました。

    子どもの小さなSOSにも全力で!
    分かり合えないことを、分かり合うために

    前回に引き続き、今回も「子どもを見守ること」の意味について考えてみたいと思います。その前にひとつ、私が子どもを見守ることと同じくらい大切にしていることをお話します。

    それは、「子ども発信のSOSには、どんな小さなことであっても全力で対処する」ということです。

    たとえば、子どもがこれまではできていたのに今日は「できないからやって」ということ。また、年齢的にできて当たり前のことや、大人にとっては取るに足りないようなこと。

    さらに、そもそも大人にはその理由が理解できないようなリクエストでも、子どもからお願いされたら惜しみなく力を貸すのです。まずは、その理由をお話ししますね。

    子どもの願いに全力で応じる理由

    子どもの小さなSOS。たとえば、10歳になった息子はいまでも、眠いときやお腹いっぱいのときに、「ごはん、あーんして」とせがんできます(ただこれは、私とふたりきりのときだけですが)。もちろん、快くOK。いつこの幸せな瞬間が終わってしまうのかなあ、と心のなかでシャッターを切りながら……。

    また、娘が小学生のころのこと。出先で「家にあるあの本をいますぐ持ってきてほしい」とお願いされたことがありました。理由を聞いても「あれじゃないとアカンねん!」と涙ながらに訴えるばかり。そのあとのスケジュールもあり迷いましたが、覚悟を決めて数10分の距離を往復して取りに行きました。

    もちろん、そうやって彼らの願いを叶えるのは、それが可能なときと場合だけ。無理難題なら「ごめんね」と断ります。でも、たとえその理由が意味不明だったとしても、そのときの私にできることなら有無を言わずに力を貸す、と心に決めているのです。それは、私の幼いころの、とある体験と関係があります。

    実は私、かつて歯医者さんが大の苦手でした。診察台に上ると顔色が蒼白になって冷や汗が止まらず、歯科衛生士さんに心配されるほどに。

    原因は幼いころ、無理やり治療された経験があったから。歯医者さんと衛生士さん、そして母親の3人に羽交い絞めにされ治療を終えたあの記憶は、いまでも強烈に脳裏に焼きついています。

    もちろん母親もお医者さんも「よかれと思って」のことだったのでしょう。でもあのとき、私の心の大切なところにぽっかり穴が開きました。「いやだ!」「痛い…」「怖いよ」と、どんなに叫んでも聞き入れてもらえない。それはとても恐ろしく、辛いことだったのです。

    目の前の子どもと、かつて子どもだった私

    前回お話ししたように、子どもたちの一見不可思議な行動には、必ず彼らなりの理由があります。

    たとえ、大人には理解できないことであっても、子ども自身が「したい」「したくない」と感じたその感情を、できる限りジャッジせず、否定もせずにあるがまま受け止める。私はそれが、目の前のわが子の自尊心を守ることになると考えています。

    そうするうちに、気づいたのです。子どものSOSに応じることは、幼いあの日の私を救うことでもあるのだと。彼らの無理難題に「よっしゃ、任せとき!」と力を貸すたびに、私はわが子に、そしてかつて子どもだった私自身に手を差しのべていました。

    子どもたちに「大丈夫だよ」と声をかけつつ、幼い私も同時に勇気づけられていく。子どもの「いやだ!」を受け止ることは、診察室で泣きじゃくる幼い私を「よしよし」と慰めることでもあったのです。

    ちなみに、いま、私と子どもたちが通っているのは、ちゃんと「いや」を受け止めてくださる歯医者さん。子どもだからといってなおざりにせず、ちゃんと治療内容を説明してくださり、「治療をしたくない」と言えば中断してくれることもあります。

    虫歯ができやすい体質の息子ですが、通ううちに慣れていき、いまでは定期検診で先生に会うのを楽しみにしているほど。ああ~私も子どものころに出会いたかった!

    画像: 5歳で虫歯ができてしまったまめぴー(息子)。初回は怖くて治療は難しく、歯磨きだけで終了。 けれど、そのときにめちゃめちゃ褒めてもらえたこともあり、2回目からは「3秒だけならいいよ」、「今日は麻酔してもいいよ」と徐々にレベルアップ! いまではまめぴーから率先して「行くで~」というほどに。どうやら、治療後のガチャガチャ(専用コインで文具やおもちゃが当たる)もお目当てのようですが!

    5歳で虫歯ができてしまったまめぴー(息子)。初回は怖くて治療は難しく、歯磨きだけで終了。

    けれど、そのときにめちゃめちゃ褒めてもらえたこともあり、2回目からは「3秒だけならいいよ」、「今日は麻酔してもいいよ」と徐々にレベルアップ!

    いまではまめぴーから率先して「行くで~」というほどに。どうやら、治療後のガチャガチャ(専用コインで文具やおもちゃが当たる)もお目当てのようですが!

    分かり合えないことを、分かり合う

    さて、「子どもを見守るということ」に話を戻しましょう。

    「わが子の考えていることが分からないんです……」それは、子どもの不登校に悩む方からの相談でした。中学生までは優等生だったのに、ある日突然行けなくなったそのお子さん。親御さんがその理由を聞き出そうとしても、頑として答えてくれないのだそう。

    どうにかわが子の苦しい気持ちを理解したい、その原因を知って解放してあげたい。そう切に思っていらっしゃる気持ちが伝わってきて、かつて子どもの不登校で悩んだこともある私は胸が痛くなりました。

    でも、相手の気持ちなんて分からなくて当たり前。そもそも、親子だって他人同士です。むしろ、わが子のことをすべて理解できていると思っている方が、ずっと怖いことなのかもしれません。

    その方は「子どもが動き出すまで見守った方がいいと言われるけれど、いつまで見守ればいいのか分からない」ともおっしゃっていました。

    お話だけしか聞いていないので確実なことは言えませんが、その方の「見守る」はもしかすると、かつての私がそうだったように、前回お話しした「見張る」に近いんじゃないかな、と思いました。

    わが子のことを信じた方がいいと頭では分かっている。けれど、心の奥底では信じ切れていないので、子どものペースを見守り続けるのを辛く思ってしまうのかもしれません。

    「お互い分かり合えなくても、分からないままで。宙ぶらりんでぐっとこらえていくうちに、いずれ道はひらけていくんじゃないでしょうか」ご相談いただいた方には、そんな風にお答えしたような気がします。

    「見守る」の根っこにあるもの

    もちろん私だっていまも、わが子のことを考えて気持ちがざわつくことがあります。

    この春、長女は通信制高校の1年生に。長男は小学5年生になり、元気に過ごしています。そんなふたりはどちらも不登校を経験し、昼夜逆転や食欲不振、長時間のゲームなど、心配した時期もありました。

    息子は天真爛漫という言葉がぴったりなほどに健やかに過ごしていますが、娘の方はまだまだ波があります。調子がよくなったかと思えば何かのきっかけで心身ともに落ち込んでしまうこともあり、いまでも心配は尽きません。

    でも、そんなとき私は、できる限り彼女とふたりきりになって同じことをするようにしています。たとえば散歩、料理、カードゲームにドライブ……。

    原因を探して「解決しよう」と真正面から向き合うのではなく、あえて目の前の彼女から視線を外す。そして隣で彼女と同じものを見るのです。そう、幼いあのころの長い長い道草を思い出しながら。

    そしてそうしながら、自分の心に問いかけてみます。「もしかして私、このままじゃいけない、いまのこの子の状態は間違っている……。そんなふうに思っていない?」と。

    たとえ、いまは目をそむけたくなるような有様であっても、この子がこれまで一所懸命に生きてきた証。一見怠けているように見えたり、後ろ向きと思える言動があったとしても、それはこれまでに受けた傷を回復させようとする、この子なりの自己治療なのかもしれない。

    その証拠に、彼女が深く沈んだあとには、その分しなやかな眼差しを得ているように感じられます。だとしたら、私はわが子のどんな姿であれ、ありのまま受け止めるほかない。そう腹をくくってみると、不思議なことに、あれほどに不安だった気持ちも和らいでいくのです。

    わが子の心の内が理解できなくてもいい。導いてあげなくてもいい。進むべき道は、きっと彼らが一番感じ取っているはず。

    私はただただ隣に寄り添って、彼らと同じものを見て、触れて、感じてみる。幼い頃のあの日のように、「見て!」と言われたら「うん」と答えて、ただただ一緒に見る。

    目の前の子どもの目の輝き、体温、息遣い。一瞬で過ぎ去ってしまう「いま」を尊くかけがえのないものとして感じること。それこそが「見守る」の根っこにあるものだと思うのです。

    いつしか遠くない日に必ず、私は彼らの隣で同じものが見られなくなることでしょう。それまでに、どうかありったけの温かな記憶が、彼らの胸のなかにひとつでも多く宿りますように。

    〈今回のスイッチポイント〉

    子どもを見守るときは、真正面じゃなく横に座って!

    一緒に同じものを見て、感じて、「いま」を存分に味わってみよう。


    ――― さて、次回も子どもと過ごす毎日のなかで心掛けていること、気づいたことなどを美濃羽さんにお聞きします。お楽しみに!




    〈写真・イラスト・文/美濃羽まゆみ 構成/山形恭子〉

    画像: 「見守る」の根っこにあるもの

    美濃羽まゆみ(みのわ・まゆみ)
    服飾作家・手づくり暮らし研究家。京町家で夫、長女ゴン(2007年生まれ)、長男まめぴー(2013年生まれ)、猫2匹と暮らす。細身で肌が敏感な長女に合う服が見つからず、子ども服をつくりはじめたことが服飾作家としてのスタートに。

    現在は洋服制作のほか、メディアへの出演、洋裁学校の講師、ブログやYouTubeでの発信、子どもたちの居場所「くらら庵」の運営参加など、多方面で活躍。著書に『「めんどう」を楽しむ衣食住のレシピノート』(主婦と生活社)amazonで見る 、『FU-KO basics. 感じのいい、大人服』(日本ヴォーグ社)amazonで見る など。

    ブログ:https://fukohm.exblog.jp/
    インスタグラム:@minowa_mayumi
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