• 浅田真央さんの生誕30年を記念して、これまでの歩みとスケートへの想いを、100の言葉で振り返える本『浅田真央 100の言葉』(扶桑社・刊)から、小学校卒業式のオリンピックとスケートにかける決心を語った言葉をお送りします。

    「私は将来オリンピックで金メダルを取れるように、中学校に行っても毎日スケートを頑張りたいと思います」
    (2003年3月 小学校の卒業式で)

    バレエを習っていた真央は5歳のとき、姉の舞とともにスケートを始める。

    初めはスケートで足首を鍛えるとバレエに役立つという理由だったが、次第に何ものにも代えがたい習い事になっていった。

    小学校に上がるとほとんど毎日、朝と放課後はリンクに足を運んだ。一般の利用者もいる中で、わずかなスペースがあればすかさずジャンプを跳ぶくらい、一生懸命だった。

    最初は1回転、次に2回転、3回転とジャンプが跳べるようになり、種類も増やしていった。

    「すごい子だなあ」

    愛知県のスケート関係者の間で注目され、評判が広がるのに時間はかからなかった。

    小学校5年生でグランプリ東海フィギュアスケーティングクラブに移る。コーチの山田満知子は、真央を見て驚いた。

    「今までたくさんの子どもを教えているんですけれど、もうダントツ、一番ですよね。ずば抜けていました。集中力、ジャンプ力……。運動能力から柔軟性、美しさ、音楽の表現、もうすべてを持っていた。それだけの選手っていないですよ。ほかのスポーツはわかりませんけれど、フィギュアスケートには、彼女はものすごく適した人」

    教え始めてみて、気づいた。

    「練習も熱心ですし、楽しそうに滑っていましたし、申し分のない子。それにね、気は強かった。私たちが言っても素直にハイって言うわけでなくて、自分で納得しないと『ハイ』とは言ってきませんのでね。教えた中では(伊藤)みどりよりも誰よりも、芯が強かったですね」

    そんな真央は6年生になると周囲をあっと言わせる。特例で2002年の全日本選手権に出場すると、女子では世界初の3連続3回転ジャンプに成功し、シニアの選手たちの中で7位に入ったのだ。

    いや、真央が描いている夢は、もっと大きかった。その年の初詣では、新年の誓いをこう掲げた。

    「トリプルアクセルをもっと完璧にすることと、4回転ループを跳べるように」

    2002年の全日本選手権では成功しなかったが、トリプルアクセルに挑んだ。

    通っていた小学校の卒業式で、みんなの前で将来の夢を宣言した。

    「私は将来オリンピックで金メダルを取れるように、中学校に行っても毎日スケートを頑張りたいと思います」

    すでに、世界一になることに思いを定めていたのだ。

    <写真/2003年全日本選手権SP『マイガール2』(K.Asakura)>


    『浅田真央100の言葉』(フジテレビ スポーツ局・編/扶桑社・刊)

    『浅田真央100の言葉』(フジテレビ スポーツ局・編/扶桑社・刊)

    浅田真央さんの生誕30年を記念して、2003年から密着取材してきたフジテレビの膨大なアーカイブから、100の言葉を厳選。 幼少時から現在までの写真とともに、波乱万丈の人生とスケートへの想いを彼女自身の「言葉」と歴代ディレクターの回想から詳細に振り返ります。 父と姉から初めて明かされる家族のあたたかなエピソードも。

    『ちょっとのコツでけっこう幸せになる自炊生活』(山口 祐加・著/エクスナレッジ・刊)


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