子どもを見守るってしんどいこと!?
分からないまま「見守る」という寄り添い方
先日、わが子と同じぐらいの年代のお子さんのいる女性が、「子どもを見守る心の余裕がなくって……」と嘆いておられました。
「わが子には自主性をもって生きていって欲しい。そのためには何ごとも、どんな過程を子ども自身が経験したのか、どう思ってどう感じたのかを、結果やスピードよりも大切にしたい。それなのに……」
彼女によると、忙しい日常のなかではよくないと思いつつも、お子さんについ過剰に手助けしてしまったり、料理なども挑戦させてあげたいと思いながら、めんどうな事になる前に自分でやってしまったり。なかば無意識のうちにそうなってしまうことを悩ましく思っておられたのです。
ああ、すごく分かるなあ。私もそうだったなあ、と昔のことを思い出しました。
かつては私もできなかった
早いものでこの春、長女ゴンは高校生、長男まめぴーは小学5年生になりました。いまは特段口出しも手出しもせず、「ひたすら待つ」「じっと見守る」態度で彼らと接しています。けれど、そこに至るまでにはさまざまな葛藤がありました。
というのも、もともとせっかちな性格の私。相談を受けた女性と同じように、いやそれ以上に、マイペースな子どもにやきもきして手助けしてしまったり、つい誘導してしまったことも数知れず。
たとえば、朝眠くてなかなか支度をしようとしない娘を待てず、無理やり着替えさせて「今日はこれ着たくない!」と嫌がられたり。上手く絵が描けなくてイライラしている娘に「こうしたらうまく描けるよ」と口出ししてしまい大喧嘩になったことも。
それが、あるときから自分でも不思議なくらい、180度がらりと変わってしまったんですよね。
でもそれは、決して私の心に余裕ができたからだとは思っていません。せっかちな性格は早々に変わりませんから。
それよりも、「見守る」のとらえ方がひっくり返った、といった方が正しいような気がします。
きっかけはゴンがまだ保育園に入ったばかりの、いまから10年以上前のことでした。そのときのことを思い出すといまでも顔から火が出そうなくらい恥ずかしいのですが、意を決してお話ししてみようと思います。
見守るのではなく、見張っていた?
娘が通っていた園では、親子でその日の朝の支度(リュックからその日の着替えや連絡帳を所定の場所に入れるなど)をします。
子どもができるようになるまで「見守る」のは大切なことだと思っていましたし、そうするべきだとも思っていた私。時間や気持ちに余裕があるときは口出しせずにゆったりと見守っていられたのですが、その日は違いました。
それはちょうど、仕事が軌道に乗ってきたころ。自分でもキャパオーバーだと分かりつつも、舞い込んでくる仕事をひたすらこなしていた時期でもありました。そんな心理状態だったため、マイペースで気が散りがちな娘にいつも以上にイライラしていたのだと思います。
なかば叱りつけながら手出し口出しし、いや、ほとんど操り人形のように娘の手を引きながらやらせていたかもしれません。娘は半べそをかきながら、私も膨大な仕事を考えては絶望しそうな気分でした。
そんなとき聞こえてきたのが「いまは、そんなもん!」という背後からの一言。教室に居たもう一組の親子の、母親の方が冷ややかに私を見ていたのです。
言葉が見つからないまま呆然としている私を背に楽し気に支度を終え、「一日楽しんでね~」とわが子に告げて去っていった彼女。いまでもはっきり思い出せるぐらい、背筋に稲妻が走ったのでした。
そうだよな……。この子はまだこんな幼くて、園にも入ったばかり。できなくて当たり前なのに、私は何をやっていたんだろう。
頭では子どもを「見守る」のは大切なことだと分かっていたし、自分でもできていたと思っていた。それなのに、心の余裕がない時はオセロの裏表がひっくり返るようにあれこれ指示ばかりしてしまう……。
そうか、私がやっていたのは「見守る」じゃなく、「見張る」だったのかもしれない。そんな考えがよぎりました。
その証拠に子どもを見守っているときを思い浮かべてみると、顔では平静を装いつつも心のなかでは終始やきもき。口出しや手助けをぐっと抑えるたびに、じわじわとストレスを溜めていました。それがこの朝、ついに噴き出してしまったのだと思います。
「分からなさ」を味わってみる
このできごとがあってから、自分のなかで少しずつ子どもへの接し方が変わっていきました。
それまではどこか、「子どもはまだうまくできないから、大人が見張っておかなくてはいけない」という義務感のようなものを抱いていました。
それに、「この年齢だからこれくらいできないと」や「将来困らないためにやらせないと」という思い込みもあり、つい手出し口出ししてしまっていたのだと思います。いやもしかすると、「子どもは大人を困らせることばかりするものだ」という被害感すらあったように思うのです。
でも、そうじゃない。困っているのは実は子どもの方かもしれない。私とは優先順位が違うだけかもしれない。私とは違う世界が見えているのかもしれない……。そんな風に思うようになるにつれ、頭がちょっとずつ柔らかくなっていったのです。
私はまず、子どもの行動の「分からなさ」をじっくり観察することからはじめてみることにしました。すると思いがけず、いろんな気づきがありました。
ただのんびりと道草を食っているだけだと思っていた娘が、足元に咲いた花にてんとう虫を見つけて小さな声で話しかけていることに気づき、ほっこりしたり。
公園にでかけても他の子のように遊具では遊ばず、延々と枝を拾っている娘に何もいわず付き添っていたら、立派なほうきを作り上げて私にプレゼントしてくれて胸がじーんとあたたかくなったり。
ああ、子どもの時間の流れは、私たち大人のそれとはぜんぜん違うんだな。そして、一見困った行動に見えても、ちゃんと彼らなりに考えがあってそうしているんだって。そう気づけるようになると、子どものことを本当の意味で信頼できるようになっていきました。
かつて子どもを見張っていたころは子どもと二人きりだとどこか居心地が悪く、イライラ、ピリピリしてばかりだったように思います。
でも、力を抜いてしゃがみこんでその小さな背丈に目線を合わせてみたら、何とも不思議で愉快な世界が見えてきました。すると、あんなに苦痛だった子どもとの時間を、心から楽しめるようになっていったのです。
あの10年以上前の春の日、たまたまわが子たちが同じクラスだっただけで、特別な付き合いもなかった私に対して、大切なことをさらっといってくれた彼女。いまも感謝の気持ちでいっぱいです。
(…後編は次回に続きます! )
〈写真・イラスト・文/美濃羽まゆみ 構成/山形恭子〉
美濃羽まゆみ(みのわ・まゆみ)
服飾作家・手づくり暮らし研究家。京町家で夫、長女ゴン(2007年生まれ)、長男まめぴー(2013年生まれ)、猫2匹と暮らす。細身で肌が敏感な長女に合う服が見つからず、子ども服をつくりはじめたことが服飾作家としてのスタートに。
現在は洋服制作のほか、メディアへの出演、洋裁学校の講師、ブログやYouTubeでの発信、子どもたちの居場所「くらら庵」の運営参加など、多方面で活躍。著書に『「めんどう」を楽しむ衣食住のレシピノート』(主婦と生活社)amazonで見る 、『FU-KO basics. 感じのいい、大人服』(日本ヴォーグ社)amazonで見る など。
ブログ:https://fukohm.exblog.jp/
インスタグラム:@minowa_mayumi
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