60歳になりました。
60歳になり1ヶ月が過ぎました。大きく変化したことはほとんどなく、驚くほどおだやかに60代を過ごしています。
歳を重ねること、そのこと自体について、よく、考えます。「何歳はこうです」という明快な答えがあるものではないので、人それぞれの「歳を重ねる」があると思いますし、あっていいと思っています。
わたしが思うことのひとつに「歳を重ねること」は「気づくこと」だと感じる時があります。いままで通り過ぎてしまっていたもの、見過ごしてきたものに気づけるようになることもそうですし、思いこんでいたこと、自分本来の気持ちを置いてきてしまったことに対し「そう言えば──」と思い出すなどです。
置かれている状況は各自ちがいますが、年齢という大きな括りのなかでは、近しい出来事が多々あります。メンタルや体調の変化、家族間の役目・節目、仕事の関わり方。そういったことが、区切りをむかえる。それが、60代なのではないでしょうか。

丼ものをいただく時の食器の組み合わせ
改めて日々の食事を見直す
それを受け、いままでの習慣を見直すようになります。そのひとつが「日々の食事」。
食事のいただき方を変えたのは、以前、書きましたが、内容そのものも見直す機会がありました。結論から言ってしまうと
「献立は少なく」
「料理を簡素に」
「すきなものをいただく」
です。
「なんだ、そんなこと」と思いますが、これだけ世界にレシピがあふれているのは「おいしいものをいただきたい」以上の何かがあるのではないかと感じています。もちろん、食事は、よろこびや誰かのため、という思いを伴います。でも、例えば、こどもたちが独立した後、食事の量が少なくなったいま、ひとり暮らしになった際、それまでと変えていいと思うのです。無意識のプレッシャーがあるのなら手放してしまう。
料理が負担になるなら出来合いのものを取り入れてもいいですし、簡単なものにしてもいいのです。自分の体(健康)と思いを優先していく。それが60歳からは、さらに、可能になるのではないでしょうか。
わたしは「丼もの」という形が、どんどん、すきになっています。食事量が減りがちな時も、丼ものにすれば完食できます。見栄えもよくさみしくならないですし、洗い物も少なくすみます。「一汁一菜」より使用する器が少ない「一汁一丼」。一汁がないときもあります。

生姜焼きとゆで卵・塩茹インゲンの丼もの。生姜焼きのタレがごはんに染みこみ食がすすみます
基本的におかずはおかず単独でいただくのがすきなのですが「丼もの」にすると、ごはんとおかずをひとつとして捉え、一緒にいただこうと思えるのが、自分でも不思議です。
60歳から自分なりの未来を想像してみる
年齢を重ねると、自分の残りの人生の時間と、健康と、よろこび・たのしみなど、自分なりに未来を想像し、計画・調整していく場面が多くなります。「これからのわたし」という視点が、日々、散りばめられていくのです。
50歳になる前。「いままでとは何かがちがう」と感じ、自分の年齢の変化をしずかに観察してきました。実際、50歳になったら「50代もいい」と思ったように、60歳をむかえたいま「60代もいい」と、思えるようになっていけばと考えています。
できなくなっていくこと、見送ることも増えますが、反して、気づくこと、自分らしく過ごせるようになる時間できれば、年齢は、やさしくわたしに微笑んでくれるでしょう。「60代の衣食住健」。おつき合いいただけたら、うれしいです。

広瀬裕子(ひろせ・ゆうこ)
エッセイスト、設計事務所共同代表、空間デザイン・ディレクター。東京、葉山、鎌倉、瀬戸内を経て、2023年から再び東京在住。現在は、執筆のほか、ホテルや店舗、住宅などの空間設計のディレクションにも携わる。近著に『50歳からはじまる、新しい暮らし』『55歳、大人のまんなか』(PHP研究所)、最新刊は『60歳からあたらしい私』(扶桑社)。インスタグラム:@yukohirose19