渓谷のこけ
自然の中でのこけ歩きでは、市街地では見られない種類のこけと出合えます。図鑑には種類ごとに主な生息地が載っていることがあるので、樹林帯や沢沿いにいそうな種類はどれだろうと、予習してから行くのもいいかもしれません。
神武寺ハイキングコースをのろのろ進む我らがこけ歩きチーム。コースタイムで30分のところ、3時間かかってもまだ神武寺に着きません。それどころか、さらなるこけ見ポイントが次々と現れ、果てしない道のりです。
美しいこけに出合ってひとしきり感動し、歩き出したのもつかの間。今度は、沢にほど近い岩からモヤシのようなものが伸びているのを見つけてしまい、目が釘付けに。
ここで少しこけの生態について説明します。こけは花を咲かせない植物。種で増えるのではなく、胞子(ほうし)をつくって次の世代へと命をつなぎます。胞子は風に乗って、または雨粒と共に流れ出るなどして外の世界へ撒かれていきます。そのときが来るまでの待機場所が蒴(さく)と呼ばれる部分で、蒴柄(さくへい)の先端にあります。私たちが見つけたモヤシのようなもの、それはジャゴケの蒴柄(さくへい)が空に向かって伸びている姿だったのです。
ジャゴケ
この蒴柄は7cmもありました。ジャゴケは這うようにして生える背が低いこけですが、蒴だけは胞子が風に乗りやすい高さまで蒴柄で持ち上げています。胞子を少しでも遠くへ飛ばしたいということでしょうか。
クモノスゴケ
湿った岩壁を覆うクモノスゴケ。あおさのお味噌汁を連想してしまいます。そういえば海苔(のり)には「苔」という字が入っていますね。
お寺のこけ
途中から沢を離れて階段状の道をぐんぐん登り、ついに第一の目的地、神武寺へと到着しました。お寺や神社のような場所は木に囲まれていることが多いせいか、程よい湿度が保たれていて、こけ探訪に最適なスポットでもあります。
たまにはこけ目を休ませて
集中してこけを見ていると、どうしても視線が下に向きがち、視野も狭まります。でもせっかく出かけたなら、ほかの生きものとも出合いたいし、周りの景色も楽しみたいところ。ときどき意識して顔を上げます。
折しも今回こけ歩きに参加されたHさんは、目ざとく見つけてはキノコの存在を教えてくれるし、Yさんはバードウォッチングの講習会に参加したことがあるそうで、「いま鳴いているのはシジュウカラ」「ほらあそこの枝にとまっています」と、歩きながらいろいろと教えてくれました。私には、鳴き声は聞こえても鳥の姿は一向に見つけられませんでした。きっとこけ目と同じように、「とり目」や「きのこ目」もあるのでしょう。
お寺から先は山道で、木や草花も生えていますが、ごつごつとした岩が目立ちます。岩に固定されている鎖をつかみながら登るような箇所もあり、じっと立ち止まってこけに見入る余裕は減ってきました。そのおかげでペースはだいぶ早まってきましたが、ところどころで岩陰にしがみつくようにして生えているこけを見つけたり、周りの景色を眺めたり。
そして15時頃、ついに鷹取山の展望台に到着しました。駅を出発したのは朝の9時、トコトコ歩けば11時ぐらいに着いたであろう昼飯前ルートでしたが、私たちは途中の神武寺でお昼休憩をとりつつ、たっぷり時間をかけました。
エビゴケ
鷹取山でエビゴケに覆われた岩壁を見つけました。こちらはフサフサの毛が美しく、つぶらな目のような胞子体が出てくる時期には小エビの群れに見えるこけです。
自然の中でこけ探しをするときのポイント
・寒さ対策は万全に。こけを見ている間は止まっているので運動量が少なく、身体が冷えがちです。防寒着はハイキングのときより一枚多く。温かいお茶を入れた魔法瓶もお供に。
・体温は頭から逃げるので、帽子は必須。こけに接近すると帽子のつばが邪魔になるので、つばがあっても柔らかいタイプか、つばなしの帽子がおすすめ。地面のこけを見ていて枝に引っかかってしまうことがよくある私は、怪我防止の意味もあって帽子をかぶっています。
・こけに近づくときに、バランスを取るため手をつくことがあります。手提げバッグは地面が濡れていると置けないので、荷物は背負って行くのが良いでしょう。下向きの体勢になっても中身が飛び出ないよう、ザックのフタはしっかり閉めて。
・紐を付けておけばルーペをなくしにくい。それに、こけ目で歩いているとあれもこれも詳しく見たくなりますから、どこかに結びつけておいて、サッと取り出せると便利です。
鷹取山の岩場を下りたところは公園になっており、そこから先は舗装路で住宅街を抜けます。しかし、こけ探訪は終わっていません。HさんとYさんの手にはルーペがしっかり握られたまま、街路樹のこけを見ていました。帰りの電車に乗るまで、朝の集合時間からトータルで6時間強。みっちりこけ歩きを満喫した1日となりました。
<文/芝生かおり 撮影/吉田智彦 >
芝生かおり(しぼう・かおり)
東京生まれ、横浜市在住。こけを愛する会社員。趣味の登山で山へ通ううちに北八ヶ岳の森でこけと出会い、その多様性と美しさに魅了された。ほかの小さな生き物も気になりだし、地衣類、藻類、菌類、変形菌にも注目している。
吉田智彦(よしだ・ともひこ)
文筆家、写真家、絵描き。自然と旅が大好物で、北米の極北を流れるマッケンジー川やユーコン川をカヤックで下り、スペインのサンティアゴ巡礼路、チベットのカイラス山、日本の熊野古道などの巡礼路を歩く。近年は、山伏修行に参加。東日本大震災後、保養キャンプに参加する福島の母子を撮影し、写真をプレゼントする活動をはじめ、福島の現状と保養キャンプの役割を伝えるため、2018年から写真展『心はいつも子どもたちといっしょ』として各地で展示している。芝生かおりの夫で、ジャゴケと地衣類偏愛者。著書『信念 東浦奈良男〜一万日連続登山への挑戦〜』(山と渓谷社)、『熊野古道巡礼』(東方出版)など。