いままで何度かさりげなく出てきた言葉、「胞子(ほうし)」。何だろうと思われている方もいらっしゃるかもしれません。
ここで突然ですが、理科のおさらいです。学校で最初にならった植物の増え方は、花が咲いて、そこには雄しべと雌しべがあって、受粉して実がなり、種(たね)ができる。種が地面に落ちて発芽し、新しい草や木として成長する−というサイクルだったと思います。
しかしそうやって増える植物ばかりではありません。種ではなく胞子(ほうし)で増える植物もいて、それらのグループをまとめて、胞子植物と呼びます。
白状しますと、私は理科が得意な生徒ではありませんでした。義務教育の過程では前述の種子植物に続いて、もれなく胞子植物についても習ったはずなのですが……、頭の中には冒頭のサイクルがかろうじて残っていただけで、胞子植物は記憶の彼方。まさか30歳を過ぎてから胞子植物であるこけに魅了され、こうして連載まで書かせていただくことになるとは。先のことはわからぬものです。
胞子植物のなかま
以下が、胞子で増える植物たち。いずれも、花を咲かせないという共通点から、「隠花植物(いんかしょくぶつ)」ともいいます。これは明治から昭和初期にかけて活躍した、博物学者であり生物学者でもあった南方熊楠も使っていた呼び名で、彼は生涯をかけて隠花植物を研究していたことで知られています。
藻類(そうるい)
言葉の音だけ聞くとピンとこないかもしれませんが、漢字を見ればイメージがつくでしょうか。海の中でゆらゆらと生えている昆布やワカメ、川底や水槽の内側をうっすら緑色に染める藻(も)などが藻類です。水中植物とは限らず、陸上で生きている種類もありますし、緑色ではない種類もあります。
渓流釣りをする人とこけの話をしていた時に、「そういえば、こけで足を滑らせて転んだことがある!あれか〜」といかにも恨めしげにいわれたことがありますが、おそらく犯人は藻類だったのではないかと。ちなみに「鮎が苔を食べる」なんて言いますが、鮎が食べているのは川の石に生えている藻類です。
蘚苔類(せんたいるい)
この連載のテーマ、我らがこけのことです。
シダ植物
日本中で生息している、日陰でよく見かける植物です。お正月の鏡餅の下に敷く「ウラジロ」と呼ばれるものはシダですし、めでたい象徴として家紋のモチーフにもなっています。わらびなど、柔らかい部分は山菜として食することもありますから、日本人にとって身近な存在ですね。
植物の進化
地球全体がまだ水で覆われていた頃のこと、古生代に誕生した一番はじめの植物は水中で生きる藻類だったことがわかっています。やがて陸地ができると、植物も陸へ進出。進化を重ね、陸上の環境に適した体へと変化しながら、さまざまな生き物が登場してきました。
なかでも蘚苔類やシダは最初の頃に出現した植物です。それより後になって種を持つ植物が出てきて、さらに、花を咲かせて実をつける植物が現れました。登場が後の種ほど、より高機能で複雑な構造になっていきます。
こけは陸上植物の中でも最も古い部類に属するので、原始的なつくりです。完璧に陸上環境に適合しているとはいえない側面があるため「植物の両生類」と表現する人もいるし、下等植物(かとうしょくぶつ)という呼ばれ方もします。下等とは何やらネガティブな響きですが、原始的ゆえの強みというのがあります。
・こけには水を吸い上げる根っこがありません。そのかわり、からだ全体で空中の水分を取り込むことができます。
・こけには乾燥を防ぐ仕組みがないのでカラカラになりやすいけれど、乾燥しても凍っても、枯れて死んでしまうことがありません。
・陸上に上がった植物のうち、シダ植物や種子植物には維管束(いかんそく)という組織があります。これは体の中で水が行き来する道であり、かつ、体を支える支柱にもなっています。その維管束を持たないこけは、大きな体を持つことができません。その代わり、他の植物が生えないような隙間にも生えることができたりします。
こけのライフサイクル
スタート地点を胞子とした場合、まず胞子が発芽して原糸体(げんしたい)という糸状(または葉状、塊状)のものができます。まだ肉眼ではよく見えないくらいの小ささです。
私の職場の裏にある小さな公園は地面が土で、ときどき全体的にうっすらと緑がかって見えることがあります。それはおそらく原糸体が集まっている段階の色ではないかと思われ、是非とも経過を見守りたいのですが、定期的にお手入れ隊がやって来て地表をこそげ取ってしまうようで、気付くと地面が土色に戻っています。仕方ないですが、個人的にはとても残念!
原糸体の上に小さな芽が現れ、それが育っていくと、茎や葉が形成され、普段私たちがルーペで見ているこけ植物の姿となります。このこけ植物の姿を形づくっているものを「植物体」と呼びます。
こけの植物体には雄株(おかぶ)と雌株(めかぶ)がありまして、形が少し違う部分があります。雄株では造精器(ぞうせいき)という部分で精子がつくられます。雌株には造卵器(ぞうらんき)があって、卵がつくられます。
そう、こけにも動物でいうところのオスとメスがあり、精子と卵があるのです。これは私にとって意外な事実で、はじめて聞いたときは一瞬理解できませんでした。泳ぎ回る精子や卵は動物だけのもので、植物にはないものだと思い込んでいたからです。理科の教科書が手元に残っていないので分かりませんが、これもちゃんと習っていたのでしょうか……。
こけも動物と同じように、精子と卵が出合ってはじめて受精卵ができます。そして受精卵が発達すると、胞子体になります。胞子体をつけているこけは雌株です。胞子体が成長すると先端に蒴(さく)と呼ばれる部分ができ、成熟すると中から胞子が飛び出し、風にのって運ばれていきます。
このような有性生殖のほかに、こけは無性生殖もします。根を持たず体全体で水分を吸収できる原始的なつくりのおかげで、切断された部分も成長でき、自身のクローンを増やしていくこともできるのです。
このあたりについては、別の回で詳しくご紹介します。
これまでさまざまなこけの姿をお見せしてきましたが、胞子体の形も多様性に富んでいて面白いので、見つけたらルーペでじっくり眺めてみてください。
<文/芝生かおり 撮影/吉田智彦 >
芝生かおり(しぼう・かおり)
東京生まれ、横浜市在住。こけを愛する会社員。趣味の登山で山へ通ううちに北八ヶ岳の森でこけと出会い、その多様性と美しさに魅了された。ほかの小さな生き物も気になりだし、地衣類、藻類、菌類、変形菌にも注目している。
吉田智彦(よしだ・ともひこ)
文筆家、写真家、絵描き。自然と旅が大好物で、北米の極北を流れるマッケンジー川やユーコン川をカヤックで下り、スペインのサンティアゴ巡礼路、チベットのカイラス山、日本の熊野古道などの巡礼路を歩く。近年は、山伏修行に参加。東日本大震災後、保養キャンプに参加する福島の母子を撮影し、写真をプレゼントする活動をはじめ、福島の現状と保養キャンプの役割を伝えるため、2018年から写真展『心はいつも子どもたちといっしょ』として各地で展示している。芝生かおりの夫で、ジャゴケと地衣類偏愛者。著書『信念 東浦奈良男〜一万日連続登山への挑戦〜』(山と渓谷社)、『熊野古道巡礼』(東方出版)など。