湿原でこけ歩き
こけは地球上の、砂漠を除くあらゆる場所で見ることができます。この連載でも街のこけ、裏山のこけ、集落のこけ、低山のこけと、あちらこちらでさまざまなこけを見てきましたが、今回は湿原のこけ、とくにミズゴケをご紹介したいと思います。
訪れたのは福井県敦賀市の池河内湿原(いけのこうちしつげん)。滋賀県との県境近くの山中に位置し、敦賀湾に注ぐ笙の川(しょうのかわ)の源流でもあります。手つかずの自然が残っており、環境を守りながら散策できるよう木道が整備されています。
湿原というくらいですから地面は基本的に湿っており、水がひたひたになっている中でも生きていける種類の植物が生えています。高い木が密集している森林と違って、陽の光がたっぷりと降り注ぎ、明るい印象でした。
木道に生えているこけや、木の幹に生えているこけに気を取られ、しばしば足が止まります。
場所によっては、半分水に浸った状態で生えているこけも見られました。バランスを崩すとカメラごと水に落ちてしまいそうな場所だったので、観察には気をつかいました。
ところどころでアメンボがいなくても水面が揺れて見えたのが不思議でしたが、あとから考えると、あれはふつふつと水が湧き出てくるポイントだったようです。木道を進んでいくと、水の中に小さな島のようなカタマリがいくつも出てきて、そこから草や木が生えていました。よく見たところ、島そのものがミズゴケの群落でした。
しっとりミズゴケ
ミズゴケは湿ったところでよく見られる種類で、湿原を代表する蘚類グループのこけです。種類が豊富なこけの中でも比較的大型で、一度見たら覚えやすい姿、色は明るめの緑です(なかには紫色や茶色の種類もありますし、緑の種類でも時期によっては紅葉して赤っぽいとき、乾燥が進んで白っぽくなっているときがあります)。
名前は明らかに「水苔」からきていると思われますし、見るからにしっとりしています。試しに指でつまんでみたところ、ジュワッと水が滴り落ちてきました。うらやましいくらいの保水力!
ルーペで覗くと、小さな葉が鱗のようにびっしり重なり合っていました。顕微鏡レベルで葉の断面を見ると、中身がある細胞と中身が空の細胞とで構成されており、水を蓄えられるスポンジ構造になっているそうです。
ミズゴケ豆知識
せっかくなので、意外と身近なミズゴケについて説明します。ミズゴケは世界で150種類ほどいることが知られており、日本ではそのうちの1/3、50種ほどが見られます。しばしば大きな群落をつくるこけで、地球全体の陸地面積の約1%がミズゴケの湿原で占められているという話も聞きます。
こけは青銅器時代の遺跡から見つかることもあり、人間に利用されてきた歴史が長い植物といえます。なかでもミズゴケは、スポンジのような弾力があり保水力に優れ、抗菌性も持つため、乾燥させたものが梱包材や脱脂綿、生理用品などとして使われていたようです。登山仲間から「ひと昔前は、山の中で怪我したときにはミズゴケを傷口に当てたらしい」という話を聞いたこともあります。
現代でも、園芸店では乾燥したミズゴケが袋に入って売られています。蘭の鉢植えの根元にある土ではないフワフワした薄茶色のもの、あれはミズゴケです。みなさんもきっと目にしたことがあるのではないでしょうか。
もうひとつ身近な活用例としては、ウイスキー独特のスモーキーな香り。あれは原料の麦芽を乾燥させるときに焚かれる「ピートモス」によって生み出されるのですが、ピートモスの正体は主にミズゴケからなる泥炭(でいたん)を乾燥させたものなのです。
泥炭とは
枯れた植物のからだは、微生物によって分解されて土に還ります。そしてその土から養分を吸収して新しい植物が育つ、という循環が成り立っています。しかし湿原ではそうはいきません。
水が多くて酸素不足、低温であることが多く、酸性が強い環境のため、分解が進まないのです。すると、色は次第に黒っぽく変化していくものの、落ち葉は葉っぱの形のまま、枯れ草やコケもその姿のままで、土というよりは泥のような状態になって重なり積もっていきます。
これが泥炭と呼ばれるものです。泥炭は腐植土や土壌改良剤として、また国によっては火力発電所の燃料としても使われているそうです。
湿原を歩くときの注意
湿原は長年かけて堆積した泥炭層で形成されています。場所にもよりますが、例えばミズバショウで有名な尾瀬ヶ原では堆積速度が1年間で約0.7〜0.8mmといわれているので、仮に5cm陥没させてしまった場合、回復にはなんと半世紀もかかる計算となります。
景色に見とれても、こけ観察に熱中しても、木道を踏み外して湿原に踏み込まないよう、足元にはじゅうぶんな注意が必要です。
あいにく虫や花に詳しくないので種類はわかりませんでしたが、今回訪れた池河内湿原は貴重な動植物が多数見られるそうで、福井県の自然環境保全地域に指定されています。
美しいトンボがひらひらと舞い、つぶらで可愛らしい花が多く見られ、こけを抜きにしてもまた訪れたいと思う、静かな美しさに満たされた散策路でした。
<文/芝生かおり 撮影/吉田智彦 >
芝生かおり(しぼう・かおり)
東京生まれ、横浜市在住。こけを愛する会社員。趣味の登山で山へ通ううちに北八ヶ岳の森でこけと出会い、その多様性と美しさに魅了された。ほかの小さな生き物も気になりだし、地衣類、藻類、菌類、変形菌にも注目している。
吉田智彦(よしだ・ともひこ)
文筆家、写真家、絵描き。自然と旅が大好物で、北米の極北を流れるマッケンジー川やユーコン川をカヤックで下り、スペインのサンティアゴ巡礼路、チベットのカイラス山、日本の熊野古道などの巡礼路を歩く。近年は、山伏修行に参加。東日本大震災後、保養キャンプに参加する福島の母子を撮影し、写真をプレゼントする活動をはじめ、福島の現状と保養キャンプの役割を伝えるため、2018年から写真展『心はいつも子どもたちといっしょ』として各地で展示している。芝生かおりの夫で、ジャゴケと地衣類偏愛者。著書『信念 東浦奈良男〜一万日連続登山への挑戦〜』(山と渓谷社)、『熊野古道巡礼』(東方出版)など。