卵のことが気になって家を出るのも寝るのも不安だった
某月某日 誰もいない場所に、バラの苗を植え続けた日
ジジジジジジジジ……。
ベッドルームの片隅で、それはただならぬ存在感を放っていた。
孵卵器の中におかれたエミューの卵は、静かに眠り続けていた。分厚い殻の内側で、命が生まれて、血管や、心臓、脊髄、それに眼胞なんかが形作られているのだろうか。それとも、命が生まれないまま熱されて、少しずつ腐敗していっているのだろうか。
鳥の卵は、ふつう光を当てると血管が透けて見えるので、それで生きているか死んでいるか判断がつくけれど、エミューの卵は分厚い殻に阻まれて中身が見えない。
孵卵器にかけてから雛が孵るまでの2ヶ月間を、生きているのか死んでいるのかもわからないまま耐えなければならないと思うと心がざわつく。
「エミューの卵が生きているかが気になって夜も眠れません」
友人たちに相談すると、エミューの卵が生きているかの確認は超音波検査で行うのが一般的だという。
「超音波検査器を持っている人が身近にいればいいのですが……」
「医者の友達とかいないんですか」
「いないですね。私がエミューの卵をお腹に入れて産婦人科に行くのはどうでしょうか。哀れに思った医者が検査してくれるかも」
「エミューの検査より先に、砂漠さんの頭の検査をする流れになりますよ」
「買うといくらですか?」
「百万円くらい」
「無理ですね」
友人の一人が「自分で超音波検査機を作る」という提案をしてきたものの、スルーしてしまった。このときの私はエミューの生死に凄まじく深刻になっており、精度の怪しい判別方法を楽しむ心の余裕がなかったのだ。
今振り返ると、精度が出なくてもよい思い出にはなっただろうから、やってみればよかったのにと思う。
こうして、生きているのか死んでいるのかもわからないエミューの卵は、その存在感だけで、私の心を支配し、悩ませ、気がつくと私はエミューのことしか考えられなくなっているのだった。
某月某日 霜を踏みながら歩いた日
朝、目覚めると同時にベッドから飛び跳ねて、孵卵器を確認する。
夜、仕事から帰ると真っ先にベッドルームに走り、孵卵器を確認する。
仕事中は、エミューの卵が無事か、事故で電気がとまっていないか、孵卵器の不調で卵が傷ついていないか、そんなことばかり考えている。
エミューの孵化を始める前の生活を思い返すと、最近の私は、ずいぶんぼんやりと生きていた気がする。
昔はもっと、ささいなことで一喜一憂して、深刻な顔をしていた。
年をとるごとに、仕事はルーチンワークになっていって、既視感がある仕事が増えていった。
いつのまにか、真剣そうな顔をすることだけが上手くなって、本気で何かを願うこともなくなって、傷つくことも疲れることもなくなって、人生を快適で安心な場所に導く怠惰な慣性の法則にしたがって、うまく人生をやれていると調子に乗っていたのだった。
孵卵器がおいてあるベッドルームは、孵卵器が不調になったときに卵が低温にさらされるリスクを下げるため暖房を最高温度に設定していたから、真冬なのに暑く、夜はいつも寝苦しかった。
「そこまでしなくても大丈夫じゃない?」
そんなふうに言われるのが嫌いだった。
でも、自分だって、今までずっとそうやって、アドバイスをするような顔をして、誰かに冷や水を浴びせ続けてきたのかもしれなかった。
某月某日 ヒヤシンスの花がこぼれおちた日
「動いてる……」
幻覚かもしれない。自分の視覚が信じられない。
「これ、動いてませんか」
「動いてる……ように見えますね」
卵がふるふると動いているのだ。ピィーッと口笛を鳴らすと、その音に一層強く反応して、青い卵ははっきりと揺れた。
「本当に生きてたんだ」
今まで、どこか現実感がないままに温め続け、生死不明のまま期待と不安だけが膨張していた。
生きている。そう思っておそるおそる手を触れると、卵ははっきりと熱く、重く、静かに震えていた。
それからしばらくして、卵の中から、ピィピィと声がするようになった。
そうなると、頭の中はもうエミューのことでいっぱいになった。家を出るのも不安、寝るのも不安で、エミューの卵のことが気になって仕方がない。いつ生まれるのだろう。
「エミューは死ごもり多いので、あまり期待しすぎないほうがいいですよ」
私がエミューにあまりにも一喜一憂するのを見て、友人がそう言った。死ごもりとは、孵化前に卵の中で雛が死んでしまうことで、エミューの場合、正常に孵化する確率は20%とか、30%とか言われている。
「ここまできて死ぬとか、とても耐えられないです」
「考えると気分が悪くなるので、デス系の言葉はしばらく禁句にしてください」
私は、心配してくれた友人にキレ散らすほど情緒不安定になっていた。
これまでにも、鳥の卵を孵化させたことはあった。死ごもりだったこともあった。でも、エミューの卵の孵化は、そのときの経験とは明らかに違っていた。
命の質量というか、存在感が桁違いで、生まれる前から情が移ってしまうのだ。
「お願いだから元気に生まれてきてね」
手をかすかに震わせながら、卵を孵卵器に戻す。卵は、生意気そうに殻を震わせて、鋭く「ピィ!」と鳴いた。
〈撮影/仁科勝介(かつお)〉
砂漠(さばく)
東京生まれ東京育ちの山奥に住むOL。現代社会に疲れた人々が、野生の生活や異文化に触れることで現実逃避をする会を不定期で開催。ユーラシア大陸文化が好き。現在はエミュー育てに奮闘中。
Twitter:@eli_elilema
note:https://note.com/elielilema