(『ひとりサイズで、きままに暮らす』より)
「どうして」の疑問に、はっきり答えがあるわけではない
誰しも悩みはある。かくいう私にだって、多少の悩みはある。
太って足腰が弱くなったことだ。着るものがほとんど入らなくなってしまった。単純に太っただけならいいが、足腰が弱っては仕事ができなくなってしまう。
ある人は、あるときから忘れっぽくなったと感じて「どうして忘れっぽくなったのだろう」と悩み、信頼している医師に相談した。
相談した時点で、彼女は悩みを吐き出してスッキリしたのだ。
ところが相談された医師は「もしかしたら認知症?」と考え、診察をすすめた。
スッキリしたと思った彼女だったが、そのときハッキリと「ノー」の意思表示ができずに、医師がせっかくすすめてくれるのだからと従うことにした。
ここに、悩んだときの分かれ道があると私は思う。
悩みにもよるが、忘れっぽくなった、転びやすくなったなどは、年を取れば誰しも一つや二つはあって当たり前だと、私ならやりすごす。
でも彼女は看過しなかった。もしかしたら何か悪い病ではないか? 認知症ではないか? 脳に異常があるのでは? などと、「どうしてだろう」と悩んだ。
「どうして」「なぜ」と思っても答えなんて出ないことのほうが、年を取ったときには多いと私は思っている。
そんなとき、昔流では「受け入れる」「受け止める」「受け流す」などと、やんわり、さらりと回避してきた。答えの見えない、わからない、不明な悩みなどを回避し、「しかたなし」「それでよし」「問題なし」との答えにしたのだ。
もちろん、ハッキリと答えのあることをハッキリさせないのは問題ありだが、年齢による病、心持ち、悩みなどといったものは、ハッキリとした答えがあるようでないことも多いからだ。
悩んだら、“どうして”より”どうすれば”
「どうして」ではなく、「どうすれば」を考えるのが大切だと思う。「どうして」と悩んでさらに悩みを深くさせることはない。
たとえば太ったなら、どうして太ってしまったのだろうと悩むよりも、どう熱量を消費すればいいかと考え、運動をして体重を減らせば、足腰もシッカリし、衣類も着られるようになる。
真面目な人ほど「どうして」が先行するが、ここは「どうすれば」を先行させるほうが悩みの回避が早い。
また、ときには「しかたなし」とのあきらめも必要だ。あきらめるとは完敗ではない。答えの出ないことをいつまでもグズグズと引きずっているより、スパッと次の未来に向かうほうがよりスッキリと気持ちを切り替えられる。
私は、気持ち切り替えの呪文「ま、いっか」を使っている。
本記事は『ひとりサイズで、きままに暮らす』(だいわ文庫)からの抜粋です
〈イラスト/樋口たつ乃〉
阿部絢子(あべ・あやこ)
1945年、新潟県生まれ。共立薬科大学卒業。薬剤師の資格を持ち、洗剤メーカー勤務を経て、生活研究家・消費生活アドバイザーの経験を活かした、科学的かつ合理的、環境に配慮した生活全般にわたる提案をしている。また、世界各国の家庭にホームステイをし、その国の暮らし・家事・環境などを研究している。薬剤師として、現在も調剤薬局で働いている。主な著書に『キッチンに一冊 食べものくすり箱』(講談社+α 文庫)、『「やさしくて小さな暮らし」を自分でつくる』(家の光協会)、『ぶらり、世界の家事探訪 ヨーロッパ編』『老親の家を片づける ついでにわが家も片づける』(ともに大和書房)ほか、多数。
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