• 間もなく戦後78年。多くの日本人にとって戦争は遠い過去のものとなりつつあります。大切な記憶を引き継いでいくために、そして平和の大切さを改めて考えるために、10代前半で終戦を迎えたノンフィクション作家の澤地久枝さんに、暮らしがどう変わっていったか、どのような思いで日々を過ごしていたのか、忘れることのできない戦争の日々を語ってもらいました。今回は、戦時中に満州で過ごした日常について。
    (『天然生活』2021年9月号掲載)

    戦争の役に立つために、学校では授業の代わりに馬糞集め

    画像: 戦争の役に立つために、学校では授業の代わりに馬糞集め

    4歳で満州の吉林に渡り、終戦後、16歳直前で日本に帰国しました。

    満州での戦争体験は、本土の人のそれとはかなり違うと思います。戦時中は空襲がなかったこともあり、私にとって戦争とは、ラジオなどで聞くだけの、実に抽象的なものだったんです。

    画像: 1934年ごろ、先に満州に渡った父へ送るために撮った写真。前列右が澤地さん、左が母親。「後列の2人は隣家に住んでいたお兄さんたちです」

    1934年ごろ、先に満州に渡った父へ送るために撮った写真。前列右が澤地さん、左が母親。「後列の2人は隣家に住んでいたお兄さんたちです」

    それでも1943年に女学校に入学したときは、上級生は学徒動員で南へ行っていて、学校にはいませんでした。私たちも2年生からさまざまな作業をさせられました。

    たとえば無炊飯といって、軍隊用のインスタント飯を袋詰めにする作業。凍らせて乾燥させたお米に混ざっているごみを取り除いてから袋に詰める。授業は一切なく、学校が工場のようになりました。

    毎日スコップをかついで学校に通ったことも。農場の肥やしにするため、通りに出て行って馬糞を集めるんです。

    親は「こんなことをさせるために学校にやったんじゃない」といっていたけれど、私自身は不満を持つことなく、いわれたことを懸命にこなしていました。

    学校には友達2人と一緒に通っていました。あるとき、私が猩紅熱(しょうこうねつ)にかかって1カ月ほど休んだことがあったんです。

    久しぶりに登校したら、通学中にその2人がクラスの先生の噂話をヒソヒソしている。「なんの話?」と聞いても「絶対にいえない」なんていって教えてくれないの。

    学校に行っても授業がないというのは、いま考えると普通ではないけれど、私たち女学生の日常は、いまの10代の子たちが日々していること、感じていることとなにも変わらなかったんですよ。


    〈撮影/林 紘輝 取材・文/嶌 陽子〉

    澤地久枝(さわち・ひさえ) 
    ノンフィクション作家。中央公論社勤務を経て1972年『妻たちの二・二六事件』でデビュー。菊池寛賞の『記録ミッドウェー海戦』など著書多数。満州時代について書いた『14歳〈フォーティーン〉』(集英社新書)がある。

    ※ 記事中の情報は『天然生活』本誌掲載時のものです



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