(『天然生活』2021年9月号掲載)
先生への憧れやラジオが軍国少女へと向かわせた
私はいわゆる軍国少女でした。

1940年、北朝鮮にいた軍人の叔父とその家族、祖母、両親や兄弟たちと。右から3人目が澤地さん。叔父の一家は戦後間もなく自決した
女学校に若い男性の国語の先生がいて、私を含めてクラス中がこの先生に熱を上げていたんです。
当時は男女が気軽に話してはいけないといわれていて、道で異性に出会ってもそっぽを向くような時代でした。だから、先生が人生で初めて出会った異性だった。
この先生が朝礼で戦況報告をした際、アッツ島というアメリカの領土で日本軍が玉砕したといって「我々の努力が足りなかったからだ」と泣いたんです。それを見て私も泣いて「戦争のために役に立たなければ」と思いました。
この出来事によって私の軍国少女ぶりは加速したと思います。
14歳って、自分では大人ぶっているけれど、まだ人生経験もない、頼りない年齢。いったんなにかに影響を受けると、極端にそっちへ傾いてしまうんです。
戦況が悪化するにつれて、だれに強制されたわけでもないのに、ごはんは子ども用茶碗に一杯だけと決めて、おなかいっぱい食べることを自分に禁じていました。終戦間近、ラジオで特攻隊が出撃する前の声を聞いて「自分も死ななければ申し訳ない」と思ったことも。
でもいまになって思えば、ラジオというのは生の声を届けるだけでなく、いくらでもドラマティックに演出できる。そうやって、あらゆることを通じて戦争に向かわせるような時代でした。
戦争末期には親元を離れて北部の村へ動員されました。働き盛りの男性は全員軍隊に召集されてひとりもいないため、その身代わりです。
電気も水道も通っていないところで1カ月間暮らして、タバコ畑で作業したりしました。蚊に背中を100カ所以上刺されて、すごくかゆかったこと、作業しているとき、背後でカッコウが鳴く声が聞こえたこと。一緒に行った仲間のことは記憶にないのに、そんなことは断片的に覚えています。
電気も水道もないなかで暮らすのはかなり大変でしたが、辛いという感覚はなく、とにかく戦争のために役立ちたいと思っていました。
当時は私だけでなく、多くの女の子たちが戦争を「聖戦」と信じて一生懸命だったんだと思います。
〈撮影/林 紘輝 取材・文/嶌 陽子〉
澤地久枝(さわち・ひさえ)
ノンフィクション作家。中央公論社勤務を経て1972年『妻たちの二・二六事件』でデビュー。菊池寛賞の『記録ミッドウェー海戦』など著書多数。満州時代について書いた『14歳〈フォーティーン〉』(集英社新書)がある。
※ 記事中の情報は『天然生活』本誌掲載時のものです