• 明けない夜はない。大きな絶望を味わったとしても、時間がいやしてくれます。「その後」も続いていく人生、光を目指して歩む日本画家の松尾春海さんにお話を伺いました。
    (『天然生活』2022年2月号掲載)

    彼が残してくれたものに、無心に向き合って

    ※記事中の情報は『天然生活』本誌掲載時のものです

    「ああ、逝ってしまった、と悟りました。現場を見たときすぐ」

    夫の秀麿(ひでまろ)さんが木を彫り、妻の春海さんが彩色をする。夫婦でつくる木彫りびなの作品展は、例年にないほど予定が詰まっていました。

    とにかく期待に応えよう、作品を仕上げようと、寝食を忘れる没頭の日々。事故は、秀麿さんがギャラリーに作品を送り出す手配を済ませた帰りに起こりました。

    「家まであと2km。徹夜続きで、とても疲れていたと思う。運転しながらきっと眠ってしまったのよね。いまでもよく思います。『なんで、あなた、たった2kmを戻って来られなかったの? 』って。木にぶつかったのよ。木を彫る人が、木にぶつかるなんてね。木に、なってしまったんです」

    それは、1997年1月20日のこと。ふたりのつくる木彫りびなは大きな話題を呼び始めていて、23日を皮切りに、7カ所での作品展が予定されていました。

    まだまだ、仕上げるべき作品は残っている状態。手元には、秀麿さんが彫ったひなが、絵付けされるのをじっと待っていました。

    作品展の中止は、まったく考えなかったといいます。春海さんは悲しみに没することなく、翌日から作品に向き合いました。なぜなら、これらの作品展をふたりは、秀麿さんはとても楽しみにしていたから。

    画像: いまも数体、秀麿さん作の木彫りびなが残る。「いつ、絵付けをしてもいいと思っています。そのとき自分がどう描くのか、楽しみでもあります」

    いまも数体、秀麿さん作の木彫りびなが残る。「いつ、絵付けをしてもいいと思っています。そのとき自分がどう描くのか、楽しみでもあります」

    「彩色しながら、涙は流れたかって? そんな状態じゃあ、絵筆は走りませんよ。ひなに向かうときは、そのことしか見えていないの。あの人はね、とてもきちんとした人だったから、スケジュールどおりにちゃんと、彫ってくれていました。私があのときやるべきだったのは、それに絵付けをすることだけ。そして無事に、予定していた作品展を終えることだけ。」

    画像: 「ひなをつくりたい」という気持ちは強く、秀麿さん亡きあとはろくろびきでひなをつくれる人を探し、いまも制作を続ける

    「ひなをつくりたい」という気持ちは強く、秀麿さん亡きあとはろくろびきでひなをつくれる人を探し、いまも制作を続ける

    泣いている暇なんてありませんでした。だから、何度もいったの。『あなたはやさしいねえ』って。私を泣かせないように、こんなに仕事を残してくれた。本当に、やさしかったと思います。3月まで、私はそうやって、作品だけに向き合うことができた。泣く暇も与えてくれない、秀麿のやさしさです」

    ひと月、またひと月と時間を重ねて

    秀麿さんを失ったその年に、思い出に満ちた自宅兼アトリエを改築。予定された作品展を終えたあとも、気づけば何か動こうとしていました。

    立ち止まれば、何かにのまれてしまう感覚。「彼は、人を集めるのが好きだったから」と、自宅の一角にサロンをつくることにしたのです。そこは「週末空間 まろう」と名づけられました。

    画像: 自宅から見える、富士山の姿。美術院国宝修理所という安定した職場を捨て、秀麿さんはこの地で作家としての生活を始めた

    自宅から見える、富士山の姿。美術院国宝修理所という安定した職場を捨て、秀麿さんはこの地で作家としての生活を始めた

    「名前くらいは、一生つきあってよね、と思って。子どもたちは成人して独立しているのがひとり、下のふたりは学校の寮に入れていたから、家には私だけ。それまでは夫婦で完結していた暮らしでしたが、ひとりになったら、周りにも助けを借りなければいけない。当時の私は無意識に、『まずは、ここを開かれた状態にしなければ』と思ったのかもしれません」

    そしてその場所では、月に一度、「一期一会コンサート」と呼ばれる催しを開きました。

    夫婦の母校である東京藝術大学の同窓生たち、そこから広がったさまざまなアーティストが演奏を引き受けてくれました。

    手づくりのパンやケーキでもてなし、アットホームに楽しむそのイベントは、20年以上にわたり続くことになります。

    「みんなに楽しんでほしくて始めたつもりだったけれど、途中からは、『これは自分のためにやっているんだな』とわかりました。演奏する人から元気をもらい、来てくれる人からもエネルギーをもらい。パンとケーキをたくさんつくって、人を迎える。それは大変な労力だったけれど、一度終えるたびに、ひと月、ひと月、なんとかがんばれた、と思う。」

    画像: アトリエには、夫の写真が多数飾られている。「見守られている気分かって? そんなたいそうなものじゃないですよ」と照れる

    アトリエには、夫の写真が多数飾られている。「見守られている気分かって? そんなたいそうなものじゃないですよ」と照れる

    「寒くなってコンサートができないときは、作品展のために、再開したひなづくりに追われる。そうやって、体を動かしながら、月日を重ねてきました。それも、去年でおしまい。加齢とともにコンサートを行う体力がなくなってきたのです」

    もう吹っ切れた、とは春海さんはいいません。満足できた、ともいいません。いまも折々に、そばにいてほしいと思います。

    「それはつらいときではなく、うれしいことがあったときですね。その喜びを分かち合いたくなる。子どもの結婚式、孫たちが生まれた日。『あなた、見られなくて本当に残念だったねえ』って」

    どんなに時間がたっても、その存在を忘れられる日なんて訪れないし、それを求める必要はないのです。ただ、春海さんはその日から、歩を進めることをやめませんでした。

    画像: 自宅には、木彫家、仏師として活動した秀麿さんの作品が多く残されている。「ものは残してくれた。それは恵まれていました」

    自宅には、木彫家、仏師として活動した秀麿さんの作品が多く残されている。「ものは残してくれた。それは恵まれていました」

    残された木彫りのひなに無心で絵付けをする。ひと月ごとの区切りを重ねながら、暮らしを続ける。もう足が動かないと思っても、歩幅は小さくとも歩みを止めずにいたことで得た、穏やかな日々。

    そしていまようやく、春海さんは、歩みを緩められるようになったのかもしれません。

    * * *


    <撮影/柳原久子 取材・文/福山雅美>

    松尾春海(まつお・はるみ)
    日本画家。仏師の松尾秀麿氏と結婚後、1987~97年、共同で木彫り雛人形の制作を行う。現在は、ひとりで制作。

    ※記事中の情報は『天然生活』本誌掲載時のものです



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