(『天然生活』2015年11月号掲載)
間違ったことをしたくない。10年間の試行錯誤の日々
農家を継いでから23年間、「ごく普通に」、農薬や化学肥料を使ってきたという川口さん。自然農に切り替えたのは、いまから37年前。有吉佐和子さんの『複合汚染』を読んだことがきっかけでした。
「そのころ僕は原因不明の体調不良にずっと悩まされていました。だから、農薬や化学肥料がもたらす影響を指摘したこの本は、本当に衝撃的で恐ろしいものでした」
体を損ねていたのは、それまで疑うこともなく使いつづけてきた農薬や除草剤が原因でした。20年以上も、自分は間違ったことをしてきたのか。愕然とする思いに駆られた川口さんは、一切の農薬類や化学肥料をやめ、時を同じくして出合った、自然農法の祖である福岡正信さんの著書から、いまにつながる手がかりを得ます。
「福岡さんは、不耕起かつ無農薬、無肥料、無除草で作物が育つといっておられた。最初は驚きましたが、耕さないことの有効性は、それまでの経験から腑に落ちました」
そこから始まった、土と作物と向き合う日々。「無除草では限界がある」と状況をみながら草を除き、耕さなければ土の養分は十分に足りることがわかってからは、使っていた有機肥料をやめて無肥料に。
そんなふうに自分なりの方法を試行錯誤したものの、お米は3年間、育ちませんでした。「失敗続きでしたが、やり方さえつかめば、作物は必ず育つと確信していた」と川口さん。
その後、米も野菜も、じかまきと苗床を育てる方法を併用したり、ひとつひとつの作物の性質に応じて手助けの仕方を工夫したりして、年を追うごとに少しずつ収穫できるように。それでも、十分な収量を確保できるまでに10年を要したといいます。その間、農業による収入はゼロ。
そのころ、育ち盛りの3人の子どもを抱えていました。さぞや切迫していたのでは、と思いきや、「なんとかなるやろ、いつもそんな感じで」。川口さんは、のんびりした口調で当時を振り返ります。
「住む家はあったので、先祖が残してくれたもののおかげでしのげていました。妻は農業に無知でしたが、安全な食を求める志向でしたから、自然農に賛成だった。でも、生活費が底をつくと、妻が『お金ないよ。子どもたち、飢え死にするよ』という。僕が『そうか、でも、今日も元気に生きてるよ』と返すと、『それもそうやな』と(笑)。彼女のおおらかさにずいぶん救われてきました」
貧しさより、川口さんを悩ませたのは、実の母との関係。生まれも嫁ぎ先も、いわゆる普通の農家だったというお母さまにとって、川口さんが掲げた自然農は理解しがたいものだったのでしょう。
「草がぼうぼうに生えて作物は育たない。さらに、近所の人からは陰口を叩かれるのだから無理もありません。母はやがてノイローゼになり寝込んでしまいました」
でも川口さんは、このときも自然農をあきらめませんでした。
「何を選び、どう生きるかは僕が決めること。正しいことを続け、人として謙虚に、誠実であれば、自然も周囲の人々も必ず僕を生かしてくれると信じていたのです」
<撮影/伊東俊介 取材・文/熊坂麻美>
川口由一(かわぐち・よしかず)
1939年生まれ。中学卒業後、慣行農業に従事したのち、1978年から自然農と漢方医学に取り組む。主な著書は『妙なる畑に立ちて』(野草社)、『自然農にいのち宿りて』(創森社)など。
※ 記事中の情報は『天然生活』本誌掲載時のものです