豊かな緑と斐伊川(ひいかわ)の清流に恵まれた、島根・奥出雲市に隣接する雲南市木次町。木次乳業の創設者・佐藤忠吉さんが目指した「安全な食づくり」が地域に広がっています。
写真について:木次乳業が経営する日登(ひのぼり)牧場の放牧風景。写真は、ブラウンスイス種。一般的なホルスタインより乳量は少ないが、乳質に優れている
(『天然生活』2017年1月号掲載)
山地放牧を徹底する、自社牧場「日登(ひのぼり)牧場」
さわやかな風が吹く朝9時。「オーーイッ、オーーイッ」というかけ声を合図に、牛舎で休んでいた牛たちが列をなして、いっせいに山を上ってきました。生い茂る木々には気持ちのよい光が差し込み、そのなかを牛たちがのんびりと進んでゆく姿は、まるで北欧かどこかの牧場風景のようです。
「うちの牧場では、牛にできるだけストレスを感じさせないようにしてますけん。人間だって、『ここで暮らしてください』と部屋に閉じ込められたら、ストレスになるでしょうに」
そう話すのは、ここ日登牧場を管理している、木次乳業の佐藤貞之社長。餌を与えやすいように、搾乳しやすいように、と、人間の都合で家畜を管理する牧場が多く存在するなか、山地放牧を徹底しています。
聞けば、「体調がいい牛のフンは、臭くない」そうで、牧場内を歩いていても、牛特有の嫌なにおいを不思議と感じません。化学肥料を使わない牧草で飼育していることも理由のひとつでしょう。
通常、牛は人間が近づくと怖がって離れるそうですが、日登牧場の牛たちは、とても人なつこく、穏やかな性格。伸び伸びとストレスなく暮らし、内面的にも健康なのがよくわかります。
酪農を核とした有機農業の始まり
島根・雲南市木次町。奥出雲地方と呼ばれるこの地域は、豊かな自然に恵まれた土地。宍道湖に流れ込む斐伊川の清流沿いに本社を構える木次乳業は、いまでは町を代表する企業のひとつです。
山奥で小規模経営をしていた木次乳業が全国区でその名を知られるようになったきっかけは、日本で最初の「パスチャライズ牛乳」にあります。
一般的な牛乳は高温処理を施すのに対し、65℃で30分という低温殺菌法でつくるこの牛乳は、本来の牛乳がもつ風味や栄養をできるだけ損なわず、摂取できるのが特徴。販売された1978年当時、珍しいものでした。
このパスチャライズ牛乳の開発に全力を注いで取り組まれたのが、先代の佐藤忠吉さん(現・同社相談役)。自然に逆らわない安全な食を目指し、日本の有機農法を先駆けて実践した人物です。現役を退いた現在でも、忠吉さんの思想に共鳴する人は後を絶たず、その功績は有機農業を目指す人々に広く語り継がれています。
「食料が豊かにとれるこの風土で、わざわざ外国の乳牛を輸入してやるっちゅうことは、当時は、ナンセンスだといわれたそうで。けれども、日本人の栄養バランスのなかでカルシウムとタンパク質が不足していると気づいた親父は、この土地に合った酪農を目指したようです」と、息子の貞之さん。
食べるということ、健康であるということ。それが何よりも大切と提唱しつづけたお父さまの背中を見て育った貞之さんは、会社を継いだいまも、安心・安全にこだわる食品づくりを継承しています。
木次乳業のこれまで
パスチャライズ牛乳を開発した木次乳業の歩みをまとめました。
1955年
佐藤忠吉が酪農を始める
「木次牛乳」として販売を始め、1969年、木次乳業社長に就任
1960年頃
牧草を無農薬栽培に切り替える
化学肥料を使った牧草で育てていた牛の異変に気づき、仲間とともに自然農法に取り組む
1975年
パスチャライズ牛乳の開発へ
みずからの体で試飲実験して、安全性を証明した3年後に販売開始
1989年
日本初、ブラウンスイス牛を導入
北欧の酪農思想に影響を受け、自社牧場である日登牧場を開設
1996年
佐藤貞之が社長に就任
木次町役場職員だった貞之さんが、お父さまの後を継いで社長に就任。忠吉さんは相談役に
1998年
シンボル農園「食の杜」開設
地域内自給に取り組み、ワイナリー奥出雲葡萄園に出資
<写真/尾嶝 太 取材・文/大野麻里>
※ 記事中の情報は『天然生活』本誌掲載時のものです