(『天然生活』2016年4月号掲載)
秩父産の繭から生まれる糸
柔らかな光沢を放つ、白い絹糸。なめらかで、ふわふわとした肌触りのこの糸は、秩父産の繭から手作業でつくられています。
「時期によって、繭の大きさや性質はまったく違いますが、それがかえって面白いんです。『今回は、どんな糸がつくれるのかな』と、いつもワクワクします」
そう話すのは、「秩父太織(ちちぶふとり)」の織り士・北村久美子さん。糸づくりだけではありません。北村さんと、一緒に働く南麻耶さんは、埼玉・秩父市にある工房で、繭から一枚の絹織物が完成するまでのすべての工程を、手作業で行っています。
織り上がった布は、私たちがイメージする、すべすべとした光沢のある絹織物とはちょっと違っています。ふっくらとした肌触りと、素朴で温かみのある風合いは、まるで綿や麻のようにも感じられるほどです。
「着やすくて丈夫なのが、秩父太織の一番の特徴なんです」
北村さんが、そう教えてくれました。
規格外の繭でつくった自家用の野良着が発祥
多くの蚕の命を犠牲にしてつくられる絹。日本では、古くから貴族や武士が着る衣服に使われたり、年貢として納める地域もあったりしたほか、明治時代には日本最大の輸出品になりました。
また、皇室でも養蚕が伝統行事として継承されるなど、絹は、日本の歴史や文化と深く結びついています。
秩父太織の歴史は江戸時代にさかのぼります。養蚕業が盛んだった秩父地域で、養蚕農家の人々が、出荷できない規格外の繭を使って糸をつくり、自家用の野良着を織ったのが始まりです。
その丈夫さが人気を呼び、明治期になると分業制へと形を変え、「秩父銘仙」として全国に広がります。しかし、昭和40年代をピークに、秩父の養蚕業、織物業は、しだいに衰退。製糸から製織まですべてを一カ所でまかなう、元来の秩父太織の技術を現在も続けている工房は、北村さんたちを含め2軒だけです。
工房では、北村さんと南さんに、繭から糸を引くところを実演してもらいました。穏やかで、常に笑顔を絶やさないふたりですが、ひとたび糸に向き合うと、ぐっと表情が引き締まります。
まずは繭をお湯で煮て繊維をほぐしてから、専用の機械を使って糸を引いていきます。80〜100匹の繭の糸を合わせ、一本の糸をつくるのです。
「お湯を使いながらの作業なので、とくに夏場は工房の中が暑くて大変。でも、自分の好きな糸をつくれるのが魅力ですね。たとえば、繊細なものをつくりたいときは細い糸、模様をはっきり見せたいときは太い糸、といった具合です」
そのあとも、不純物を取り除く作業、染色、糊づけなど、実際に糸を織るまでに、手間のかかる工程がたくさんあります。どれも根気のいるものばかり。北村さんたちは、真剣なまなざしで、黙々と手を動かしていました。
「地味な仕事ですが、ここで手を抜くと、うまく織れません。ほとんどの労力は、織る前までの工程に費やします。どんな製品をつくりたいかをイメージし、そこから逆算して、糸引きや精練の仕方を微妙に変えていくんです」
独特の節とふっくらした質感
現在、北村さんたちは、親しくしている近所の養蚕農家から直接、繭を買っています。無農薬の桑を育てて蚕に食べさせている、昔ながらの農家です。蚕の成育時期に合わせて、北村さんたちは年に5回、繭から糸を引いています。
「もともと秩父太織は、汚れていたり、糸の巻きが短い『くず繭』を使っていましたが、私たちは、時期によっては良品も使います」
秩父太織に使われる糸の大きな特徴は、撚(よ)りがかけられていないこと。80〜100匹の繭から引いた糸をそろえ合わせているだけなのです。織る際には強度が足りないので、事前に糊づけの作業が必要になりますが、無撚糸(むねんし)ならではの魅力もたくさんあります。
「撚る際の張力もかからないので、ふっくらとした糸になりますし、織り上がったものは丈夫で、しわになりにくいんです。しかも、絹なのに、自宅の洗濯機で洗っても大丈夫なんですよ」
無撚糸で織った布には、ところどころにぽつぽつとした節や、「しぼ」と呼ばれる凹凸ができます。これが、秩父太織ならではの、おおらかで、自然な風合いを生み出しているのです。
「最初はざっくりとした風合いで毛羽もありますが、着るうちに、つやが出て、なめらかな肌触りになります。秩父太織には、使いながら育てる楽しさがあるんです」
<撮影/村林千賀子 取材・文/嶌 陽子>
ハンドウィーバー・マグネティック・ポール
2015年7月、秩父市内に工房を構える。北村久美子さんは、埼玉県出身、43歳。短大のデザイン科を卒業後、この道へ。南麻耶さんは、神奈川県出身、27歳。学生時代から織物を学ぶ。「マグネティック・ポール」は「磁極」。ふたりの名前にある「北」と「南」に由来。
※ 記事中の情報は『天然生活』本誌掲載時のものです