(『あさってより先は、見ない。』日常愛 より)
日常愛、ということば
「日常愛」ということばとの出合いは、二〇一五年五月十七日の朝刊でした。
胆管がんのため七十五歳で亡くなった詩人、長田 弘(おさだ・ひろし)。記者のインタビューに
応えた逝去前日のことばです。
日常愛とは何か。
「生活様式への愛着です。大切な日常を崩壊させた戦争や災害の後、人は失われた日常に気づきます。平和とは、日常を取り戻すことです」(毎日新聞より)
この日の朝、「日常愛」ということばに降られたわたしは、はじめ小雨にあってそぼ濡れていたのだけれど、気がつくとずぶ濡れになっていました。
はっとして「日常」への愛着をかき抱きながら、それより大切なものはないと、気づかされながら、あわてました。
新聞には、当時刊行されたばかりの『長田弘全詩集』(みすず書房)に収められた、太平洋戦争へ出兵した日本軍兵士の陣中日記を引いた詩が紹介されています。
「....../焼のり、焼塩、舐め味噌、辛子漬、鯛でんぶ、牛肉大和煮/......」
戦争にいった男の遺した、戦争がくれなかったもののリスト。
焼のりも焼塩も。
辛子漬けのための茄子、きゅうりだって、大根だって、すぐにでも用意できます。牛肉大和煮も缶詰で。
いまは、たちまち誰かさんの日常への愛着を実現させる術が、そこにもここにも......。
この世からの旅立ちを、翌日迎えることになる長田弘は語ります。
「戦争はこうして、わたしたちの生活様式を裏切っていきました。こういう確固とした日常への愛着を、まだずっと書きつづけたかった。(中略)いま、失われようとしているものがいかに大切かということを......」
さて、わたしの日常愛観。
失われなければ気づくことのない、日常の価値とは いったいどういうものであるのでしょう。
● 朝起きてのびをする。
● 起きだして身支度。洗顔、歯磨き。
● 神棚への挨拶(二拝。二拍手。一礼)。
● 仏壇への、朝の挨拶(お水を供し、お線香を)。
●「こころを寄せる場所」への朝の挨拶(お水を供し、お線香を)。
● その日の予定の確認。
こんなふうにして家もわたしも目覚めてゆきます。
一日がはじまります。
「わたしも似たようなはじまりだわ」と云う方もあるでしょうし、「身支度のあと、朝ヨガをします」とか、「子どもが起きてくる前に、朝食の準備、夕食の下ごしらえをしなくては」とかね。
朝の風景は年代によっても異なることでしょう。
いまの日本には、「深夜に行われた空爆。その場所はここからは遠いが、くり返し爆弾が落とされ、爆弾の炸裂音、激しい振動によって眠るどころではなかった」というなか朝を迎えて、空襲警報下、一日がはじまるという現実はありません。
しかし地球上のところどころに、夜のあいだに住処を破壊され、見知ったひとの死を知ることになる朝が広がっています。
いまこそ「日常愛」。いまある日常を大事に
日本にもかつて戦争の日々があり、わたしが知る限りでもこれまで数えきれない災害の日々がありました。いまなお、朝のくることに恐怖を感じる人びと、失われた日常をとり戻せない人びとがたくさん......。
少なくともわたしは、「日常愛」に目覚めなくてはならない、と思うのです。
この愛しい日常の値打ちを噛み締めたいと、思うのです。
噛み締めて、「ちょっと黙りなさい」と自らに向かって云う。
「文句や愚痴を云ってるんじゃないわよ」
「不運をひとのせいにしたりするんじゃないの」
そんなあきれたことをしている暇があったら、日常を大事に大事にして、そのなかで、生きる力を身につけることですよ。何か起きたときに、役立つ力を。
本記事は『あさってより先は、見ない。』(清流出版)からの抜粋です
〈撮影/田邊美樹〉
山本ふみこ(やまもと・ふみこ)
1958年、北海道小樽市生まれ。現在、埼玉県熊谷市在住。随筆家。「ふみ虫舎」エッセイ講座主宰。自由学園最高学部卒業。出版社勤務をへて文筆業へ。日々の暮らしに寄せるあたたかな視点に定評がある。東京都武蔵野市教育委員や東京都市町村教育委員会連合会会長を歴任。著書に『忘れてはいけないことを、書きつけました』(清流出版)、『家のしごと』(ミシマ社)他多数。
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