(『天然生活』2022年12月号掲載)
夫婦ふたりで台所に立つ時間ができました
夕方5時。自宅の別々の場所で過ごしていたこぐれひでこさんと夫の小暮徹さんが見晴らしのよいサンルームに集合します。
徹さんがつくったカクテルを手にして、「今日もおつかれさまでした」の乾杯。相模湾を眺めながらお酒を楽しんだあとは、一緒に夕食の支度。これがふたりの日課です。
「TORU(トオル)君とふたりで台所に立つ日が来るなんて、昔はまったく想像してなかった」
そう話すひでこさん。徹さんが毎日のように料理をするようになったのは、8年前、東京から神奈川県横須賀市秋谷に引っ越してきてからのことなのです。
イラストレーターのこぐれさんと、写真家の徹さん。長年、東京の目黒区中目黒に暮らしていたふたりがいまの家に移り住んだのは、60代半ばのときでした。
それまで暮らしていたのは仕事場も兼ねた3階建ての家。この大きな家を今後も管理していくのは大変だと考えていたころ、偶然見つけたいまの家の開放的な雰囲気にひかれ、移住を決断したのです。
最初は環境の激変に落ち込んだものの、少しずつ新しい土地に慣れていきました。
「ご近所の人が庭で採れた野菜や手づくりジャムをくださったりしてね。前の家では、こんなご近所づきあいをしたことはなかったな」
もうひとつ、食べることや料理が大好きなこぐれさんを喜ばせたのは、三浦半島のおいしい食材でした。いまは週に約1回、徹さんと一緒に買い出しに行くのが習慣。野菜や魚、パンなど、それぞれお気に入りの店を車でまわります。
「この辺りは食材が豊富。珍しい西洋野菜があったりして面白いし、料理をつくりたくなるの」
それまで料理はほとんどしなかったという徹さんも、この家に来てから台所に立つように。
「TORU君は本を見ながら本格的なフランス料理なんかをつくっちゃうんですよ。最近は手打ちパスタまで。私は面倒な作業は苦手なので、そういうときはサラダとかの副菜担当です」
写真家として多忙を極め、海外出張で家を空けることも多かったという徹さん。スーパーで買い物をしている夫婦連れを見て、こぐれさんがうらやましく思ったこともあったといいます。それから年月を重ねたいま、夫婦の暮らしの中心は紛れもなく日々の食事です。
「朝ごはんを食べながら『お昼は何にする?』ってもう相談してる。いつもふたりでおいしいおいしいっていいながら食べてるの。家でのごはんがおいしいから、外食に行く機会もめっきり減っちゃった。食への興味は、いまも尽きることはないですね」
他人を気にしなくなって、気持ちが楽になった
常に忙しく、大勢の人に囲まれていた時代を経て、最近では友人たちが時々遊びに訪れるものの、基本的には夫婦ふたりの静かな暮らし。ともに感じているのが「他人を気にしなくなった」ことです。徹さんがこう語ってくれました。
「昔は他人あっての自分だった。今日はあの人に会うからこの服を着ようとか、今夜は集まりがあるから顔を出さなきゃ、とかね。歳をとって前ほど人に会わなくなったら、無理しなくなった。解放された感じがするんだ」
自分に正直に過ごせるようになって、気分が楽になった。そう話すこぐれさんは、こうもいいます。
「でも、歳を重ねるのは楽しいことばかりじゃないわよ。筋力は落ちるし、寝起きも悪いし、人の名前はなかなか思い出せないし……。歳をとるのはいいことだって言うつもりはまったくないですね」
かたわらで聞いていた徹さんがいいました。
「年齢に関係なく、いつだって“いま”をどう楽しく過ごすかってことなんだと思うな。若いころより衰えるのは仕方ない。そのなかで、どう工夫していくかってこと」
歳を重ねることをことさら美化することもなく、否定もせず。毎日、今日のごはんを何にするか考え、おいしいと喜んだり、たまに失敗して落ち込んだり。こぐれさん夫婦のこんな暮らしにこそ、人生の本質がある気がするのです。
これからは仕事に関係なく、純粋に好きな絵も描いていきたい
仕事場でイラストを描くこぐれさん。旬の食材を使った料理をイラストと文で紹介する連載コラムを長年続けている。
「少しずつ仕事のペースを落とそうかとも考え中」
年代別、あのころの私を振り返って
現在、70代のこぐれさん。これまでどんな人生を歩んできたのでしょう? 時代を振り返ることで、いまにつながる何かが見えてきそうです。
20代
大学卒業後すぐに徹さんと結婚。25歳でパリに渡り、3年間暮らす。「知らないことだらけで、毎日が旅している感じ。いろいろなことを吸収しました。ものになるかどうかは考えず、挑戦することが大事なんじゃないかな」
30代
20代終わりで設立した洋服の会社の経営者・デザイナーとして奮闘。「人のことやお金のことなど、心配が尽きませんでした」。そのころは犬を飼っていて、「犬と会社の30代、という感じだった」。会社は38歳のときにたたんだ。
40代
イラストレーターとして活動を始め、すぐに仕事も軌道に。「自分がやりたいことができていたかな」。夫婦でパリに家を持ち、東京との2拠点生活に。「20代よりもお金に余裕があったので蚤の市でたくさん買い物しました」
50代
本を何冊も出版するなど、「一番働いた時代。忙しすぎて泣いたことも」。徹さんも写真家として忙しく、海外出張で家を留守にすることも多かった。51歳のとき、長年暮らしてきた中目黒に3階建ての仕事場兼自宅を建てる。
60代
東京の大きな自宅を今後も管理していくのは大変だと考え、新たな住まいを探し始める。神奈川県横須賀市のいまの住まいに出合い、67歳で移住。仕事もぐっと減らし、夫婦で食材の買い出しや料理を楽しむように。
「東京とパリをしょっちゅう行き来していたころ」。大きなダイニングテーブルはいまの家でも使っている大理石のもの。「ものすごく重くて、大きなフランス人男性が3人がかりで運んでくれました」
<写真/砂原 文 取材・文/嶌 陽子>
こぐれ・ひでこ
1947年生まれ。服飾デザイナーを経てイラストレーターに。食や暮らしに関するイラスト、文章を中心に活躍。著書に『こぐれひでこのおいしい画帳』(東京書籍)など多数。今年で22年目になる、日々の食事を紹介する人気連載「こぐれひでこの『ごはん日記』」はウェブメディア「ルーミーキッチン」で毎日公開中。
※記事中の情報は『天然生活』本誌掲載時のものです