『わたし時間を取り戻す 暮らしの技術』(だいわ文庫)
必要なモノは変化していく
人生のステージごとに必要なモノは変化するし、どのステージでも適したモノを使用しなければ、暮らしは満足というわけにはいかない。
とはいえ「必要であるから」と、材質、形、大きさ、使い勝手、デザイン、仕舞いやすさ、価格などを考慮も吟味もせずに、選んでいいのだろうか。
ひらめき、直観、ファッション、人にすすめられたといったことで安直に選んでしまったモノは、長く使えるか、と問われると自信がない。
しつこいほど、吟味、考慮、厳選して選び取ったモノは、使用感がよく飽きもこなくて、人生のステージを超えて一生付き合っていられる存在になると、私は思う。
包丁を選び直したら、身体の負担も軽くなった
とくに、食に関するモノは、そうした傾向が強いように思う。例えば、包丁。
私の場合、第三の人生時間のハイライト期に、人との付き合いが盛んで、わが家の人の出入りも多くなり、調理頻度も増加傾向にあった。
調理道具の基本である包丁は、前の人生時間に選んだモノ。その頃は調理回数も少なく、選び方も吟味したとは言い難い。おざなりに選んだ包丁は、調理回数が多くなると切れ味、形、大きさなど、その良し悪しが気になるようになり、満足いかなくなった。厳選しないと、調理自体に不都合、不便、不手際が起こる。
そこで、先の人生時間を見据えて選び直した。形、材質、大きさ、重さ、使い勝手などをトコトン吟味して選んだ。すると、面白いことに、スイスイ調理が捗り、楽しく、身体の負担も少なくなったのを実感した。
これは私が体験したほんの一例だが、暮らしを支え、技術を駆使する時、モノが要る。そのモノを安易に選んでしまい、使い勝手が悪かったからと眠らせてしまっては勿体無いし、そうした必要なモノが眠ったままスペースを塞いでも、片づけは大変になる。
手に入れる前に、3度の吟味を習慣に
これは、包丁だけのことではない。
書籍が好きだからといって、図書館へ行けばいいのに、次々にネットで取り寄せて積読していてはスペースが足りなくなり、足の踏み場もなくなって、ついには片づけにも手が付けられない始末となる。
どんなモノでも手に入れる前に、必要か否か、3度は吟味することだ。3度繰り返し吟味した結果、必要と判断したなら、次は購入のために厳選する。
必要なモノには、使用の目的が明確にある。
その目的に適しているかどうかだ。形、材質、大きさ、重さ、使い勝手、デザイン、出し入れのしやすさ、価格、そしていつか手離す時の廃棄方法までも、考慮する。
すべてが満点ではなくとも、ほぼ70点以上であれば、使用目的に適ったモノと言え、購入対象となる。ここまで厳選するためには、モノをあらゆる角度から観察する選択眼を養っておかなければならない。
選択眼は、暮らしに対しての自分なりの姿勢=「暮らしの眼」とでも言うべきものだ。選択眼は、幼い時から年月をかけて養われている。自分の育った家庭はもちろん、親戚、友人、知人など多くの暮らしを見て、経験して、培われていくのだと思う。
安直にモノを選び、モノを増やし、片付けの手間を増やすより、厳選した必要なモノを手元に置く、ここが片づけでは肝心なのである。
本記事は『わたし時間を取り戻す 暮らしの技術』(だいわ文庫)からの抜粋です
〈イラスト/タカヤユリエ〉
阿部絢子(あべ・あやこ)
1945年、新潟県生まれ。共立薬科大学卒業。薬剤師の資格を持ち、洗剤メーカーに勤務した後、消費生活アドバイザーの経験を生かして、科学的かつ合理的な生活提案をしている。食品の安全性や家事全般の専門家として、テレビ、新聞、雑誌等で幅広く活躍。また、世界各国の家庭にホームステイをしながら、その国の暮らしや環境問題を研究している。主な著書に『キッチンに一冊 食べものくすり箱』(講談社+α文庫)、『「やさしくて小さな暮らし」を自分でつくる』(家の光協会)、『始末な暮らし』(幻冬舎)、『老いのシンプルひとり暮らし』『老いのシンプル節約生活』『わたし時間を取り戻す 暮らしの技術』(大和書房)他多数。