(『天然生活』2022年10月掲載)
自分らしくあるために
※記事中の情報は『天然生活』本誌掲載時のものです
「ずっと前、ここは青年座の養成所だったの。おととし亡くなった弟が俳優をしていて、その伝手(つて)でここを知って母が買い、下は住まい、上は芝居やバレエの稽古場として貸していた。だから私がドイツから帰国した20数年前は何もないただの部屋で、自分の演奏会なんかも最初はここでやっていたの」そういってピアノが2台置かれる3階の部屋に、フジコ・ヘミングさんは招いてくれました。
実はこの取材の2週間後、ニューヨークのカーネギーホールで行われる演奏会を控えていたのです。今回で3度目、音楽の殿堂といわれる大舞台に立ちます。
「会場の大小にかかわらず、いつも怖くなるほど緊張するわ。何度やっても、ちっとも慣れない」
とてつもないプレッシャーと強いストレスに向き合うには、オフの日の過ごし方が大切になってくるといいます。
それは、ピアノの練習に時間を費やし、その合間に本や新聞を読んだり、テレビを見たり、絵を描いたりと適度な気分転換をして穏やかに過ごすのです。
手作業でつくられた時代の古いものに価値をおく
部屋に置かれる家具はアンティーク調。
テーブル周りにある椅子は一脚ずつ違い「その椅子はドイツの道端に捨てられていたの。そっちの白い大きな椅子はストックホルムの学校で使われていたもので、処分すると聞いて抱きかかえて持ち帰った。こういう古いものを使っていると、はずかしいと思うのかしら。ほんとうの木を使い、職人が全部手作業でつくっていた時代のものよ。そういうものに私は値打ちがあると思っていてひかれる」
ほかにベッドかと思うような大きな長椅子には猫が2匹、寝そべっています。フジコさんの母が1930年代にベルリンに住んでいたときに使っていたもので、よく見ると脚がボロボロ。
猫が爪研ぎをするからです。一度脚を替えてもらったにもかかわらず、相変わらず爪を研ぐそう。その横にあるピアノもフジコさんの母がベルリン留学中に使っていたもので100年以上前につくられたブリュートナー社の名器です。
つい「これは?」と聞くと、そのどれにもストーリーがあります。
窓辺にある本棚に視線を移せば「これは、劇団ご用達の人気の大工さんに、ここの雰囲気に合うようにつくってとお願いしたの」
ここに並ぶ本は、フジコさんが子どものころに使っていたという音楽の辞書や、大好きな作家だという芥川龍之介の本、ドイツ語版の聖書、詩集、洋書などいずれも時代を感じさせる装丁の本ばかり。
「私、あまり詩のことはわからないけど、ゲーテよりハイネのほうが好き。彼の詩はかわいい。たとえばね、こういう詩があったわ。君のひどい仕打ちを ぼくは誰にもいわなかったが 古池に出かけていって 千枚のうろくずたちに話しておいた。君のよき名は この世では許されようが 君の不実は 古池の魚たちが知っている」
手に持つ本のページをめくりながら、そらんじてくれました。
<撮影/衛藤キヨコ 取材・文/水野恵美子>
フジコ・ヘミング(ふじこ・へみんぐ)
父はスウェーデン人。東京音楽大学(現・東京藝術大学)卒業。28歳でベルリン音楽学校に留学。初リサイタルの直前、聴力を失うアクシデントに見舞われる。失意の中、ピアノ教師をしながら演奏活動を続ける。母の死後1996年帰国。1999年NHKのドキュメント番組『フジコ~あるピアニストの軌跡~』が反響を呼ぶ。
※記事中の情報は『天然生活』本誌掲載時のものです