(『天然生活』2021年10月号掲載)
建築家におまかせして完成した“ぶどう色の本棚”
きれいな光が差し込む書斎に足を踏み入れた瞬間、壁一面を埋め尽くす本棚に目を奪われました。
一部は2階の天井まで届く高さ。そこに単行本や文庫本、漫画や雑誌などがジャンルごとに並べられている様子は圧巻です。
「引っ越しの際に本を整理したので、持ってきたものは全部入りきりました。上の棚はまだ空いているくらい。料理本はキッチンの棚にまとめて置いています。仕事場にも資料用の本が、ここにある量の3分の1くらいありますね」
角田光代さん夫妻が新居を建て、愛猫のトトと一緒に引っ越したのは数年前のことです。
設計は依頼した建築家にすべておまかせ。本棚についても『本が多い』ということを伝えただけでした。
そうしてでき上がったのが、ぶどう色の大きな本棚。そこに収まったのは、角田さんが大切にしつづけている選りすぐりの本の数々です。なかには小学生のころから持っているというものも。
「昔、実家を出た際に持ってきたものもまだ何冊かあります。一番古いのは『ギリシア神話』かな」
高校時代から読んでいた太宰治、20代から読み始めた内田百閒や尾崎翠、30代半ばで面白さに目覚めたジョン・アーヴィング……。まだ新しさが残る本棚には、角田さんの長年にわたる読書の歴史が詰まっているのです。
新しい本棚には、夫婦の本を一緒に並べて
並んでいる本について角田さんに聞くなかで「それは夫の本なんです」という答えがときどき返ってきました。
この本棚には夫婦それぞれの本を区別せずに並べています。聞けば、以前住んでいた家では分けていたのだとか。
「昔、本棚が登場する短編を書いたことがあるんです。恋人と同棲していた男女が本棚にお互いの本を分けずに入れていて。やがてふたりは別れることになり、一緒に暮らした部屋から別々に引っ越すのですが、共同の本棚から自分の本をより抜くのがいろいろな意味で大変だったという内容。そのことが無意識に頭にあったんでしょうね。今回、新しい本棚に本を入れるとき、夫に何気なく『本、どうやって入れる? 持ち主ごとに分ける?』っていったら『分けることになんの意味があるの?』って聞かれてはっとしました。私、別れを想定していた……? って。同時に、夫はまだ私と別れる気はないんだな、と安堵もしました」
作家らしいと同時に、なんだかくすっと笑えるやりとりを経て、仲良く収まった夫婦の本。ときどき、お互いに面白かった作品を薦め合うこともあるそうです。
新刊を読む一方、同じ本を読み返すことも。あらためて読んでみるとまったく違う印象を受けることもあるといいます。
「先日、とある仕事で芥川龍之介の作品を読み返したんです。芥川はあまり好きな作家ではなかったんですが、今回読んでみて、この人は生きていることにこんなにも絶望していたのか、と初めて気づきました。彼の作品が苦手だったのは、その絶望が苦しく感じられたからだったのかもしれません。もうひとつ気づいたのは、彼の情景描写の上手さ。とくに夕暮れの描写は本当に見事だなと思います」
読むタイミングによって感じることもがらりと変わる。長年本を読み続けてきた角田さんの言葉からは、読書の醍醐味がひしひしと伝わってきます。
〈撮影/有賀 傑 取材・文/嶌 陽子〉
角田光代(かくた・みつよ)
作家。1990年「幸福な遊戯」で海燕新人文学賞を受賞しデビュー。『対岸の彼女』で直木賞など受賞多数。本文に出てきた、男女の別れと本にまつわる短編は『さがしもの』(新潮文庫)に収録。
※記事中の情報は『天然生活』本誌掲載時のものです