(別冊 天然生活『心と体が若返る小さな習慣』より)
過去は「もう目の前にないもの」だから、とらわれない
世の中は常に変わりゆくものです。時間は流れ、いま目の前にあることも、過去になっていきます。
人の心も本来は、サラサラと流れつづける小川のような状態です。しかし、苦しみがあると川の流れは滞ります。
人の苦しみには、何らかの執着が関わっており、その場に留まってしまうのです。愛されなかった、大切にされなかった、望んでいた道に進めなかった、などのつらい経験があったかもしれません。
けれど、その体験はもう過去になり、記憶のなかにしか存在していないもの。つまり、過去を引きずることは、自分のなかの記憶に反応している状態なのです。
それなのに、ときに過去の執着が、自分ばかりでなくだれかを苦しめることもあります。たとえば、親が子に、果たせなかった自分の望みを託してしまうケースをときどき見かけます。
自分が受験に失敗したことを引きずり、わが子に勉強を強いてしまう。
間違った親だと判断することに意味はありません。自分を縛っている過去に、いかに気づけるかなのです。
人間関係は、期待せずに、理解する
人とうまくいかないとき、多くの場合、その背景には「期待」があります。
「ふつうはこうするはず」と不満に思うことも、相手の変化を待つことも、期待によるものです。
そもそも違う人間なのですから、別々の考えをもつのは当然のこと。「わかってもらえるはず」は妄想であり、苦しみになります。
いい、悪いではなく、「そうか、私はわかってほしかったんだな」と、そのまま理解してください。人間関係のゴールは「理解」であり、人との関わりは、自分と相手を理解するプロセスなのです。
もしも最初は話が通じない相手だったとしても、問題はありません。
違うことを互いに理解し合えて、それが喜びになるのならば、本質的な関係が結べます。
怒りをもつことは、自分の心を失うこと
だれかから理不尽な対応をされたり、期待が裏切られたりすると、怒りを抱きそうになります。
そんなときは、すぐに相手を裁かず、心の中を二段構えにしましょう。まず、半分で相手への理解を試みます。
「言っていることは、わかる」「どうしたいのか、聞かせて」と、客観的に対応するのです。もう半分では、自分の心を観察します。
怯えていないか、過去の出来事を結びつけて怒りを生み出していないか、などと気づきを向けます。これらがぐらつけば、相手への反応、つまりは怒りに飲み込まれてしまうでしょう。
それは自分の心を失っている状態であり、苦しみを伴います。
もしも相手と理解し合えない場合にも、怒りで応酬せずに、距離を取ればいいのです。
* * *
<監修/草薙龍瞬 構成・文/石川理恵 イラスト/しまむらひかり>
草薙龍瞬(くさなぎ・りゅうしゅん)
宗派に属さず、仏教の本質を伝えている僧侶。興道の里で仏教講座を開催。『反応しない練習』(KADOKAWA)、『大丈夫、あのブッダも家族に悩んだ』(筑摩書房)、『消えない悩みのお片づけ』(ポプラ社)など累計著書が30万部を超える。日々に役立つ仏教についてブログでも発信。https://genuinedhammaintl.blogspot.com/
※記事中の情報は、別冊 天然生活『心と体が若返る小さな習慣』掲載時のものです