まだあるのに、「新しいごはんください」
猫たちと暮らしていると、ときどき「どうしてそうなるのだろう」と首をかしげることがあります。
そのひとつが、ごはんのお皿に残る、ほんの少しの“あとひとくち”です。
うちではドライフードを食べ放題にしているのですが、なぜか毎回、少しだけ残ります。お皿をのぞくと、「いや、まだありますけど?」というくらいには入っています。それなのに、猫たちは食べません。そのかわり、「もうない」「補充を希望します」という顔で騒ぎます。

これ以上減ると、誰も食べてくれません
10歳のお姫様「こころ」などはとくにそうです。
ドライフードとウェットを混ぜて出す特別ごはんをあげているのですが、毎回、絶妙に少しだけ残します。あと3口くらい。いや、がんばれば2口。でも食べません。
そしてこちらを見ます。
「新しいやつ、ありますよね?」
ありますよね、ではないのです。こちらとしては、「まず現在庫をお願いいたします」と言いたいのですが、猫の世界では、どうやらそう単純ではないようです。

新しいごはんを補充すると、みんなまっしぐら
最初は心配しました。口の中が痛いのかもしれない。食べづらいのかもしれない。体調が悪いのではないか。
けれど、元気です。
こころだけじゃありません。みんな、走るときは走るし、鳴くときは鳴くし、深夜には急に運動会を開催します。
3年前に来たママ猫「ヨナ」にいたっては、ぶりんぶりんに太っています。もう、「食べられていない」という概念から一番遠い場所にいます。
となると、これは不調というより、“食へのこだわり”なのだろうと思えてきます。
猫は、人間が思う以上に、食べものの変化に敏感なのかもしれません。まだ残っていても、少し時間が経つだけで、「さっきのごはん」になってしまう。
ドライフードの香りが少し飛ぶ。器の底に粉がたまる。ウェットを混ぜた部分の水分量が変わる。そういうわずかな違いを、ちゃんと感じているのでしょう。

カリカリの表面についた旨味成分をなめなめ
たしかに人間でも、封を開けたばかりのおせんべいと、ちょっとしけたおせんべいでは、気分が違います。猫たちの「まだあるけど、もう違う」も、きっとあれに近いのだと思います。
ただ、うちの猫たちを見ていると、それだけでもない気がします。
なぜなら、少し残して鳴けば、人間が来るからです。器をのぞく。「まだあるよ」と言う。それでも鳴く。仕方なく器を振る。少し新しいのを足す。すると食べる。
完全に理解しています。
とくにこころは、「人間は、一度見に来る」ということを知っています。
まず、“少し残す”。次に、“こちらを見る”。そして、“圧をかける”。ときには、お皿の前に座ったまま、大コーラスです。

まだ入ってるのに、新しいのを待つ......
ヨナはさらに豪快です。
「新しいやつを入れてもらったあと、残ってた古いやつも食べる」という荒技を使います。
だったら最初から食べてくださいと思うのですが、ヨナのなかでは“追いフード”という儀式が重要なのでしょう。
ぶりんぶりんには、ぶりんぶりんなりの哲学があります。

常にごはんコーナーを気にしている、ぽっちゃりヨナ
猫と暮らしていると、正解を探すより、「この子はこういう食べ方をする」を覚えていく時間のほうが長い気がします。
理屈の通らなさも含めて、猫らしいのですね。
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咲セリ(さき・せり)
1979年生まれ。大阪在住。家族療法カウンセラー。生きづらさを抱えながら生き、自傷、自殺未遂、依存症、摂食障害、心の病と闘っていたところを、不治の病を抱える猫と出会い、「命は生きているだけで愛おしい」というメッセージを受け取る。以来、NHK福祉番組に出演したり、全国で講演活動をしたり、新聞やNHK福祉サイトでコラムを連載したり、生きづらさと猫のノンフィクションを出版する。主な著書に、『死にたいままで生きています』(ポプラ社)、『それでも人を信じた猫 黒猫みつきの180日」(KADOKAWA)、精神科医・岡田尊司との共著『絆の病──境界性パーソナリティ障害の克服』(ポプラ社)、『「死にたい」の根っこには自己否定感がありました──妻と夫、この世界を生きてゆく』(ミネルヴァ書房、解説・林直樹)、『息を吸うたび、希望を吐くように──猫がつないだ命の物語』(青土社)など多数ある。
ブログ「ちいさなチカラ」





