子どもにも、「知る権利」はある
“真実告知”とは、特別養子縁組制度で迎え入れたお子さんに対して、養親が彼らの出生に関する事実を伝えることを指します。
児童の権利に関する条約第七条第一項(※)でもその権利は明確に記され、出自を秘密にしておくことは、親が子どもの知る権利を奪っていることにほかなりません。
セキさんは、縁をつないでくれたNPO法人の方から、真実告知の必要性について「そのときそのときの子どもの年齢に合わせた理解しやすい伝え方で、真実告知を行うことが望ましい」と、当初からていねいに伝えられていました。
そして何よりもセキさん自身が「子どもが自分のルーツを知りたいと思うのは当然のことだし、知る権利がある」と、その考えに強い共感を持っていました。
※ 児童の権利に関する条約(子どもの権利条約)は、18歳未満を「児童」と定義し、国際人権規約において定められている権利を児童について敷衍し、児童の権利の尊重及び確保の観点から必要となる詳細かつ具体的な事項を規定したものです。1989年の第44回国連総会において採択され、1990年に発効しました。日本は1994年に批准しました(外務省のHPより)
※ 児童の権利に関する条約(子どもの権利条約)第七条第一項
児童は、出生の後直ちに登録される。児童は、出生の時から氏名を有する権利及び国籍を取得する権利を有するものとし、また、できる限りその父母を知りかつその父母によって養育される権利を有する。
長女は、産んでくれたお母さんのお話が大好き
実際セキさんのお宅では、長男にはまだ理解が難しいと考えて伝えていませんが、長女には、彼女が3歳になったころから、真実告知をしています。
・産んでくれたお母さんがほかにいる、ということ。
・産んでくれたお母さんは事情があって育てることができなかったので、私たちが育てている、ということ。
・それは悲しいことでは決してなくて、みんながあなたのことをとても大切に、とても大事に思っているからこそ、社会の中で、みんなで育てていこう、という制度があるということ。
・そして私たちはあなたのことが大好きで、大事で、だから一緒に暮らすことができてとってもうれしいし、大喜びで家族になったんだよ、ということ。
「実は娘が1歳のときに、NPO法人を通じて、産みのお母さんとお会いすることができたんです。娘はそのときのお話をするのがとっても好きで、私の知らないところで、突然周りのひとに元気よくそのことについてお話しすることがあるんです。言われた方は返答に困る場合もあるのでは? と思ったり、変なふうに伝わる心配もあったりしますし、成長するとまた違う感情が生まれてくるのではないかとも思っていますが、いまの彼女の心に、“誰かに話したい”できごととして刻まれているということは、素敵なことではないかなあ、と。産みのお母さんは、それ以来毎年、長女の誕生日にプレゼントを贈ってくださいます」(セキさん)
セキさんのように、産みのお母さまと温かなやりとりを交わすことができるのは、珍しいケースかもしれません。いろいろな事情があり、私には考えが及ばないぐらいの厳しい現実がある場合も多いのだろう、とも想像します。またセキさんの言うように、これから思春期を迎えるにあたって、彼女にこれまでとは違う、複雑な感情が沸き上がってくるかもしれないとも思います。
その感情を当事者でない私が完全に理解することは、きっと、できません。
でも、できないと認めた上でも、このお話を聞いたとき、きっと彼女は、「私には素敵なお母さんが2人もいるんだよ!」と、周りのみんなに聞いてもらいたいぐらいに誇らしげに思っている、それってとても幸せだということじゃないかな、と思いました。
いつもそばで見守ってくれているお母さんとお父さんがいて、仲良しの弟がいる。さらには、離れているけれど、毎年誕生日を忘れずに祝ってくれる、自分を産んでくれたお母さんもいる。
祖父母であったり、親戚のおじ・おばであったり、父母以外の存在が、ときに大きな心の拠り所になることがあるように、自分の存在を無条件で喜んで受け止めてくれるひとがまた別にいるという事実は、何よりの力強い支えになります。
周囲はどのように受け止めるべきなのか
同時に、ふと頭に浮かんだのは、初対面の子どもに「私の産んだお母さんは別のところに住んでいるんだよ!」とうれしそうに唐突に言われたら、私はどういう表情をして、どういう言葉を返すのだろう、ということでした。さらには、どんな対応が、どんな返答が、いちばん望ましいのだろうか、とも。
「へえ」と事実を事実としてそのまま受け取るだろうか。複雑な事情と勝手に憶測で察し、曖昧な表情で「そうなんだね」と言いながら、話題を変えようとするだろうか。にっこり笑って、「お母さんが2人いるなんていいねえ」と受け止め、その子の話したいままにおしゃべりを聞くだろうか。驚いて返答に困るまま、沈黙の時間が流れるだろうか。
相対する子どもそれぞれで、ふさわしい対応は変わってくるのかもしれない。
気遣いが余計になる場合もあるのだろうとも思う。
咄嗟に出てしまった反応で傷つけてしまうこともあるかもしれない。
でも、少なくとも、いま目の前にいる子がこの世に生まれてきてくれたことと、そうしてこうやって私と出会っておしゃべりしてくれたことが、私はとってもうれしい、ということを、何かしら表現できたらいい。そんなふうに思いました。
それは、園に息子を迎えに行ったときに、息子の友達であろうとなかろうと、我先にと駆け寄ってきてはいろいろなことを伝えてくれるすべての園児に対して、「なんてかわいいのだろう!」と毎回大きな感動とともに思うことと同じように。
「特別養子縁組が“特別なこと”ではなくなるように」とは、セキさんが、編集部を含めた最初のZoom打ち合わせでおっしゃった言葉です。
最近、知人から、養子を育てている海外の方が、「“私の子”以外に、なぜ養子にだけ“養子”という肩書きのようなものがつくのか」と憤慨されていた、と聞きました。
「“私の子”というそれ以外に必要な情報ってある?」と。
真実告知は、子に対してだけではなく、ときに、その子どもに関わる周囲のひとへ、彼らの出自を伝えることも、含みます。
そして同時に、それに対する周囲の反応も、社会のあり方も、問われているはずです。
事実は事実として、それ以上でもそれ以下でもなく受け止めた上で、その個人の姿そのものをそのまままるっと包み込んでくれるような社会であってほしい。
なによりも自分がまず、そうでありたい。
すべての子どもをとりまく環境が、どうかやさしく柔らかで、温かいものでありますよう。
次回は、いよいよ最終回です。二拠点暮らしを経て、北海道への移住と、その生活。そしてこれからのお話を。
〈撮影/前田 景〉
遊馬里江(ゆうま・りえ)
編集者・ライター。東京の制作会社・出版社にて、料理や手芸ほか、生活まわりの書籍編集を経て、2013年より北海道・札幌へ。2児の子育てを楽しみつつ悩みつつ、フリーランスの編集・ライターとして活動中。