(『天然生活』2021年9月号掲載)
大豆15粒が、今日1日の私のごはんのすべて
私が戦争を肌で感じるようになったのは小学校2年生のころから。身のまわりのものが次々となくなっていきました。
よく通っていた近所の本屋の棚もスカスカになっていったし、キャラメルやチョコレートなどのお菓子も姿を消しました。そのうちにお米も配給制になって、やがてお米すらも手に入らなくなりました。
あるときから母が煎った大豆を15粒、封筒に入れて、朝、私に渡すんです。「これがあなたの一日分のごはん。家に帰ってきても食べるものはないのよ」って。
まず学校に行く途中でおなかが空いたので3粒食べてお水をいっぱい飲む。お豆がふくらむからです。学校へ着いて間もなく、空襲警報が鳴って防空壕へ入ります。
そこにいる間、「もしここで空襲にあって死んでしまったら大豆が食べられなくなるから、いまのうちに少し食べておこう」と思ってもう3粒食べる。なかなか警報が解除されないからもう3粒食べて、残りは6粒。
「でもこれを持って帰っても、もし空襲で焼けておうちがなくなっていたらどうしよう。お父さまやお母さまもいなくなっていたらどうしよう。もしそうだったら大豆を食べるどころではないから、いま食べておいたほうがいいのかもしれない」
悩みながらそのまま持って帰ると家があって「ああよかった!」と思って夜に残りを食べるんです。おかげでそれ以来ずっと、15を基準に計算するのはすごく早くなりました。
戦争とは、泣いてもいけないものなんだと思った
その後は大豆もなくなり、海藻麺というのが配給されたのをよく覚えています。ホンダワラという海藻をこんにゃくみたいなものに練り込み、うどんのようにしたもの。味付けは何もないんです。
当時はすでに、お味噌もしょうゆも手に入りませんでしたから、ゆでるだけ。本当にまずかったけれど、そんなものでも食べなければ飢え死にしていたかもしれませんね。
いつもおなかを空かせていて、空襲も毎日のようにあって、学校に行っている間に家が焼けてしまわないかと不安になる。そんな毎日でした。
2年生のときのことです。ある雨の日、教会の日曜学校へ歩いていく途中、おなかは空いているし寒いし、なんだか悲しくなってしまって、泣きながら歩いていたんです。
そうしたらおまわりさんに「おいお前」って呼び止められて、「なんで泣いているんだ」と聞かれて。「寒いから泣いているんです」って答えたら「泣くな。戦地の兵隊さんのことを思ったら泣くなんてできないだろ」って。
あぁそうか、戦争っていうのは泣いてもいけないものなんだと思い、以来なにがあっても泣きませんでした。
母が泣いているのを見たのは一度だけ、父が出征すると決まったときの夜です。ヴァイオリニストとして活躍していた父が、ヴァイオリンを置いてどこかへ行く。それは私にとっても恐怖でした。
当時はまだ子どもでしたが、それでも出征していく兵隊さんを見ながら、「この人たちはどこへ行ってしまうんだろう?」という不安は感じていました。
戦地というものがどういうところなのかはわからない。でも「もしかしたら死んでしまうかもしれない」ということは、子ども心にもわかっていたのだと思います。
食べ物がないこと、空襲があることへの恐怖も大きかったですが、それよりもお父さまが戦争に行って二度と帰ってこないかもしれない、学校から家に帰ってきたらお母さまが亡くなっているかもしれない、そのことのほうがずっと怖かったです。
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〈取材・文/嶌 陽子〉
黒柳徹子(くろやなぎ・てつこ)
俳優、司会者、作家。NHK専属のテレビ女優第1号。日本で初めてのトーク番組『徹子の部屋』は48年目を迎える。自身の幼少期を描いた自伝的小説『窓ぎわのトットちゃん』は800万部というベストセラーに。20以上の言語で翻訳と、世界中で愛されている。そのアニメーション映画が、2023年12月8日に公開予定。
※ 記事中の情報は『天然生活』本誌掲載時のものです