(『天然生活』2021年9月号掲載)
東京大空襲の翌日に青森へ疎開
東京大空襲があった夜は、空がものすごく明るくなりました。わが家は被害にあった下町から相当離れていましたが、庭に本を持ってきて広げたら字が読めるんです。
「お母さま、大変。空が明るくなって本が読める」と母にいったら、「大丈夫。夜の火は近くに見えるけれど本当はもっと遠いはずだから」といっていました。あのとき空が真っ赤だったこと、夜なのに外で本が読めるくらい明るかったことは、いまでもはっきり覚えています。
そのときはすでに父も出征していて、母はもう東京にいては危ないと思ったのでしょう。その翌日には出発して、知り合いを頼って青森の三戸に疎開。畑に建っているりんご小屋を貸してもらい、そこで暮らしました。川のそばで、すき間風が寒かったけれど、母が工夫してできるだけ居心地よくしてくれました。
疎開したとき、私は栄養失調で全身におできができていました。爪の中にまでできてしまって、それが化膿するからものすごく痛い。
見かねた母が、周辺でとれる野菜をリュックいっぱいに詰めて、八戸の港へ行って魚と交換してもらい、それを私に食べさせたら、あっという間に治ったんです。
タンパク質は大切だとよくわかりました。また母は音楽学校を出ていたので、結婚式があると聞きつけると着物を着てその家に行き、「東京から来た者ですが、一曲歌わせていただきます」といって「金襴緞子の帯しめながら」なんて歌を歌うんです。するとみんな喜んで、引出物の魚の形をしたお菓子をくれる。それがわが家の貴重な食糧になっていました。優雅だった母が、よくこんなにたくましくなれるなとびっくりしたものです。
平和に貢献できると信じ、テレビの仕事を続けてきた
戦争が終わったことは、青森で知りました。真っ先に思ったのは、「これでお父さまが帰ってくる」ということ、そして「もう頭の上から爆弾が降ってこないんだ」ということでした。とても安心したことを覚えています。
戦時中のことで、ずっと後悔していることがあります。まだ東京で小学校に通っていたころ、駅で出征する兵隊さんたちを日の丸の旗を振って見送ると、焼いたスルメの脚を一本もらえたんです。
いつもおなかを空かせていたので、スルメ欲しさに私はしょっちゅう兵隊さんを見送っていました。でも戦後、ふと考えたんです。私が旗を振ったことで「こんな子どもも一生懸命見送ってくれたんだから、がんばって戦おう」と思った兵隊さんがいたとしたら、私はなんてことをしてしまったんだろうって。
私がのちにユニセフの親善大使になって世界中の紛争地を訪ねるようになったのも、あの体験が原点としてあるのだと思います。
テレビの仕事を続けてきたのも、新人のころ「テレビは永久の平和に貢献する」という言葉を聞いたから。この仕事をしている以上、戦争に加担するようなことは決してしないと心に決めてきたし、これからもしないつもりです。
戦争において、子どもにはなんの責任もありません。
大人たちの行動に巻き込まれているだけ。家族とバラバラにされたり、常に不安のなかにいなければならなかったり。そういう経験や思いを子どもたちに決してさせてはいけない。だから戦争は二度と繰り返すべきではないと思うのです。
黒柳さんと戦争
1939年(昭和14年) 第二次世界大戦始まる
1940年(昭和15年) トモエ学園入学
1941年(昭和16年) 太平洋戦争始まる
1942年(昭和17年) 4月に東京に初の空襲
1944年(昭和19年) 父親の出征
1945年(昭和20年) 3月に東京大空襲
母、妹、弟とともに、青森県三戸郡(現:南部町)へ疎開
8月6日 広島原爆投下
8月9日 長崎原爆投下
※8月9日の私のお誕生日は、この日からパーティなどできず、お祈りの日になりました(黒柳さん)
8月15日 終戦
1948年(昭和23年) 疎開先の青森から東京に戻る
1949年(昭和24年) シベリアに抑留されていた父親が帰国
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〈取材・文/嶌 陽子〉
黒柳徹子(くろやなぎ・てつこ)
俳優、司会者、作家。NHK専属のテレビ女優第1号。日本で初めてのトーク番組『徹子の部屋』は48年目を迎える。自身の幼少期を描いた自伝的小説『窓ぎわのトットちゃん』は800万部というベストセラーに。20以上の言語で翻訳と、世界中で愛されている。そのアニメーション映画が、2023年12月8日に公開予定。
※ 記事中の情報は『天然生活』本誌掲載時のものです