(『天然生活』2023年6月号掲載)
新しい暮らしからみつめる“無駄のない暮らし”
「ずいぶん思いきって減らされましたね」
古書店でそう云われたとき、わたしはちょっと困って「余計なことを考えず、ずんずんことを進めようと思ったら、こうなりました」と応えました。
半世紀以上も暮らした東京から、埼玉県熊谷市にある夫の実家に移り住むことを決めたときのことです。
引越し先は、築150年を超える大きな農家ですから広さはあって、持ちものをそのまま運んでもよさそうでした。けれど本、食器、道具類、衣服などを減らそうと考えたのは、これから先、さらに身を軽くして暮らしたかったからなのです。
本は、10分の1まで減らしました。
無駄は出さないようにと自らと約束して、思いきった荷物減らしをはじめたのでしたが、だんだん「無駄」とはいったいなんだろうか、という疑念のようなものが生まれました。
役に立たず、益のないこと(もの)を指すのが「無駄」だというのはわかるけれども、役に立たなくても、家のなかに……、日常のそこここに……、自らのなかに……佇む「無駄」のなかには、おもしろみだってありはしないだろうかと、思わされていたのです。
おもしろみを超えて、この世にゆとりを生みだす機会をつくる「無駄」もありそうで。
熊谷の家での暮らしがはじまって、もうすぐ2年になります。
「古いタンスや下駄箱を無駄にしないで、うまく使ってるのね。うちは奥の間に仕舞ったままなのよ。亡くなったおじさんおばさん、喜んでいるわ」
と、様子を見にきてくれた夫のいとこたちが云います。
うつくしさに惹かれて使わせてもらっているだけなのだけれど、そうか、無駄にしない結果となったのだなと思いました。
旅するように暮らしたい
無駄にしなかったと褒められて、うしろめたさが胸の奥から押しだされたようです。夫の両親の持ちものの多くを、夫とわたしは残酷なまでに捨てたのですもの。「ごめんなさい、ごめんなさい」と声に出してあやまりながら。
残酷作業を終えたとき、「お父ちゃん、お母ちゃん、ずいぶん処分しましたが、残したものは大切にしますから、許してね」と誓いました。
大きく立派な仏壇まで処分しました。
専門の業者さんに頼んで、拝んでもらって片付けたのです。
仏壇のなかにぎゅう詰めになっていたお位牌やら、仏具やらを整理して、床の間のとなりの棚にならべたとき、「ふう」と、安堵のため息が聞こえました。
ぎゅう詰めから解放された皆さん(ご先祖さま方)が、のびをしているな、と思うことにしました。暮らしを見直すのには、勇気も必要です。
これまでずっと「旅するように暮らしたい」と希(ねが)いながらやってきましたが、移住を機に、その気持ちはますますつよくなっているようです。
東京で暮らしていたころ、その希いの中心にあったのは、持ちものはできるだけ少なく、でした。いまは、庭で自分たちの食べる野菜を細々とつくるようなことも加わっています。
「無駄」を出さないはなしをしなくてはいけないのに、こちらに揺れ、あちらに揺れて定まらないことといったらありません。
けれど「無駄」というものはそういうものじゃないでしょうかね。
揺れながらつきあって、ちょうどいいところに立てたなら、それでよしとしたいと思います。
〈イラスト/須山奈津希 文/山本ふみこ〉
山本ふみこ(やまもと・ふみこ)
北海道生まれ。随筆家。「ふみ虫舎エッセイ講座」主宰。2021年に、東京から埼玉県熊谷市へ移住。築150年の古民家に暮らす。近著に、移住先での新しい暮らしや家族のこと、仕事のことを綴った『あさってより先は、見ない。』(清流出版)。
webサイト:https://www.fumimushi.com/
※ 記事中の情報は『天然生活』本誌掲載時のものです