(『天然生活』2021年4月号掲載)
対談:受け継ぐ想いのバトン
上野万梨子さん × 渡辺真紀さん

写真右:上野万梨子さん 左:渡辺麻紀さん
上野万梨子(うえの・まりこ)さん/料理研究家
飯田深雪さんに師事。ル・コルドン・ブルー・パリ校に留学。帰国後、フランス料理教室「ラ・ヌーベル・イマージュ」を主宰。91年に活動の拠点をパリに移す。著書に『Mariko食堂 ごちゃまぜパリ風レシピ』(扶桑社)など多数。インスタグラムで料理や近況の紹介も。
インスタグラム@ueno.mariko.official
渡辺麻紀(わたなべ・まき)さん/料理研究家
上野万梨子さんに師事し、アシスタントも務める。フランス、イタリアで料理を学び、独立。それぞれブームの先駆けとなり、いまも版を重ねる『QUICHES キッシュ』(池田書店)『ごちそうマリネ』(河出書房新社)などの書籍多数。
女性が生涯続けられる、創造的な仕事。それが料理家
─渡辺さんは2代にわたって上野さんから料理を学ばれたとか。
渡辺 もともと母が万梨子先生の教室に通っていて、先生のレシピでつくってくれる、食べたことのない夢のようなおいしさにうっとりするような子どもでした。
上野 ランドセルを背負った麻紀ちゃんが教室に遊びに来てくれたのをいまでも覚えているわ。
渡辺 中学受験の面接で将来何になりたいかと聞かれ、「上野万梨子先生になりたい」と答えたほど憧れていたんです。晴れて自分も教室に通えるようになったときは心底うれしかったです。
上野 アシスタントもしてもらったわね。
渡辺 先生がパリに拠点を移されるまでの2年間だけでしたが、私にとって宝物のような経験です。
─上野さんが料理家という職業を選んだきっかけは何でしたか?
上野 私も麻紀ちゃんのように大学時代に料理を習い始め、卒業後には先生の教室で見習い修業をしながら料理の面白さにめざめました。そして、当時は女性が独立して生涯続けられる職業が少なかったけれど、料理家という仕事ならそれがかなうと気づきました。しかも自分の手でものを生み出すという、とてもクリエイティブな仕事です。これだ! と思ったわ。
でも日本の環境は、私には少し合いませんでした。子どものころから教科書通りの勉強や、先生の教えをまねるようなお稽古事が好きではなかったから。何でも自由に自分流にやりたい性分だったのね。そこで興味を抱いていたパリへの料理留学を決意しました。フランスの料理、文化、生活すべてに魅了され、私というフィルターを通したフランス料理を日本で教えていこうという決心がついたのです。
渡辺 先生の授業が唯一無二でユニークだったのは、そういうことだったのですね。
上野 私、教室ではしゃべり通しだった気がするわ。早口だったでしょう?
渡辺 ええ(笑)。時候のごあいさつや世間話などはまったくなさらず、いきなり本題に入られて、料理、その背景にある文化、ご自身の体験や人々の生活に至るまで、次から次へと話してくださいました。毎回、楽しくて仕方がなかったです。先生の言葉のシャワーを浴びるうちにどんどんフランスに興味がわいてきて、結局、私もパリに勉強に行きました。
すべてを惜しみなく伝える。相手のため、自分のために
渡辺 いま、私自身が料理教室で教える立場にあります。当時、先生はどんなことを考えながら教えられていたのですか?
上野 自分の知っていることを包み隠さず、すべて開示することを心がけていました。それは相手のためだけでなく、むしろ自分自身のために。
どういうことかというと、スポンジに吸収された知識という水をぎゅっと自分で絞るようにして出し切ると、そのあとのスポンジにはまた新しい知識や発想がたっぷりと入っていきます。絞り切らずにけちけちしていたのでは、スポンジに次の分が入る余地がないでしょう? あのころの私は実際にスポンジを思い描きながら、このことを常に考え、自分に言い聞かせていたの。

渡辺 とても大切なことを教えていただいた気がします。心に刻んでおきます。
─料理についてはどんなことをお考えですか?
渡辺 アシスタント時代に「私の料理は基本はフレンチでも、私流の料理。伝統的な料理もちゃんと学んでね」と先生からアドバイスを受け、古い料理への見方が変わりました。
上野 ええ、その通りね。パリに移ってからは、料理へのアプローチが変わりました。教室時代にはさまざまな素材を組み合わせたレシピも紹介しましたが、いまではどんどん削ぎ落として、最後に残った3種類の素材だけでもおいしい料理は生まれるものだなと思うようになりました。でもそれは、ここは曲げられないというこだわりがレシピの骨格にあればこそと思います。
〈撮影/大森忠明 取材・文/美濃越かおる〉
※ 記事中の情報は『天然生活』本誌掲載時のものです