(『天然生活』2021年9月号掲載)
終戦を境に難民に。先がまったくわからない日々

13歳のころ。満州吉林の女学校1年生。毎日一緒に、片道30分ほどかけて通学していた友人2人と。後列に立つ少女が澤地さん
14歳で終戦を知ったときに思ったのは「神風は吹かなかったのだな」ということ。
その日を境に、満州に暮らす日本人は国に見捨てられ、難民になりました。収入も途絶え、いつ日本に帰れるかもわからない。そこへソ連軍が満州にやってきました。
10月ごろ、家族などと家にいるところへ突然2人のソ連人将校が入ってきた。そのうちの1人が私に近づいてサーベルを抜き、きっさきを私の胸に突きつけたんです。近くに引き寄せられて間近で見た相手の顔にニキビの痕が見えたのを覚えています。
必死で抵抗すると、諦めて出て行きましたが、その晩は気分が悪くなって吐きました。ずいぶんのちのことですが、1972年に海外旅行をした際、たまたまモスクワ空港に立ち寄ってソ連兵の姿を見た瞬間、体が凍りついた。
あのときの恐怖が一気に蘇ってきたんです。私が実際に戦争の恐怖や辛さというものを体験したのは、終戦後のこの経験あたりからでしょうね。
日本に帰国するまでは、少しでも収入を得るために通りで物を売ったりしたこともあったし、1畳に2人というスペースでほかの家族と共同生活をしたこともあります。
明日どうなるかもわからず、毎日が体力と気力の限界を試しているような日々。難民生活の間に亡くなった人も大勢いました。
ようやく引き揚げが決まったのは、1946年8月。母は病身、父も黄疸にかかり、弟妹も幼かったので、私が一番重い荷物を背負ったと思います。長期間、髪も顔も洗えない生活。引き揚げ船は博多に上陸し、そこで引揚者の写真を撮ったのですが、私の姿はおばあさんのようでした。
博多から山口県へ向かう引き揚げ列車に乗ったとき、父が買ってくれたお弁当の蓋を開けてみたら、ごはんにあたる部分がすべて真っ黒なひじきだった。すごくびっくりしたことを覚えています。
〈取材・文/嶌 陽子〉
澤地久枝(さわち・ひさえ)
ノンフィクション作家。中央公論社勤務を経て1972年『妻たちの二・二六事件』でデビュー。菊池寛賞の『記録ミッドウェー海戦』など著書多数。満州時代について書いた『14歳〈フォーティーン〉』(集英社新書)がある。
※ 記事中の情報は『天然生活』本誌掲載時のものです