(『妻が余命宣告されたとき、 僕は保護犬を飼うことにした』より)
困り顔の新しい家族
新しい家族ができたという喜びと興奮からか翌朝はいつもより早く目が覚めた。福はしばらく、娘のつむぎの部屋のクローゼットの中で静かに眠っていたのだが、明け方になると、こっそりクローゼットを抜けだしたようだ。
そして、全く見知らぬ環境のなかで唯一信頼できるのはこの人と心に決めたのか、つむぎが眠るベッドにそっと近づくと、音もなくひょいと飛び乗った。
落ち着かない様子でしばらくはもぞもぞしていたが、そのうち足下にうずくまると、くるっとアンモナイトのように丸くなり静かに寝息をたてた。
「ここなら安心だ」そう思ったに違いない。この日以来、福はつむぎのことをまるで姉妹のように慕うようになった。
一方で僕に対しては泣けるくらいさっぱりの反応だった。朝、はりきって福を出迎えにいっても、目を合わせるどころか捕まえられないように一定の距離を保ち、すぐ逃げだせる姿勢をくずさない。もう警戒感が全身から漂っている。
なんとか部屋の隅にいる福に触れようとしてそっと腰をかがめると足下からするりと逃げていく。しまった! と思っても追いかければパニックになってしまうだろうから深追いはできない。触れ合いたいという「気」が僕の頭のてっぺんから足の先まで、溢れ出ていたに違いない。
「これは先が思いやられるなあ」そう思うと、少し気が重くなったけど、ここで諦めるわけにはいかないのだ。
まだワクチンや狂犬病の予防接種が終わっていないから散歩に行くことはできない。けれど、「ずっと四方を壁に囲われた環境に閉じ込められていた福には社会化のためのプロセスが必須」だと藤原先生が言っていた。
犬にとって通常生後一週間から3ヶ月くらいの間が社会化期と呼ばれる。この間に物音や匂いなどさまざまな外界の刺激を受け、外の世界を知ることがその後の犬の性格を大きく左右する。
車、騒音、人、犬、さまざまなものと出会う機会がないと、ずっと怖がりで臆病な犬になってしまうのだ。
一説にはこのときに100人以上の人に会わせなければ人見知りな犬になってしまうとか。それが本当かどうかはわからないが、福の様子からみて社会化プロセスを経ていないのは確実だ。
しかも福の場合はおそらくこの体格からして、すでに社会化のタイミングを逃しているのではないかと思われる。大切な時期に閉じ込められていたので、もはや手遅れかもしれない。
だけど少しでも順応してもらうために、今日からさっそく抱っこして外を歩く予定だった。なのに一向に僕には指一本触れさせてくれないのである。
「お願いだから首輪をつけさせてー(泣)」
そんな言葉が通じるはずもない。
しかたがないので、唯一心をゆるしているつむぎにお願いして福を捕まえてもらうことにする。
「ごめん、散歩に行きたいんだけど触らせてくれなくて。申し訳ないけど首輪つけてもらっていい?」
「オッケー。散歩も一緒に行こっか?」
なんと散歩にも付き合ってくれるというではないか。ありがたい。実はちょっとひとりでは不安だったのだ。つむぎはひょいっと福を抱えてトートバッグの中に。あんなに僕が苦労したのが嘘のようだ。
トートバッグの中で丸くなり、ぶるぶると震える福を担いで、つむぎとふたりで近所を歩く。冬の東京は気温こそ低いけれど、真っ青な空には雲ひとつなく、乾いた空気がぴりりと気持ちいい。
高校生になったつむぎとふたりで散歩するなんてことは、犬が家族にならなければきっとなかったに違いない。
ちょっとだけうれしいような、くすぐったいような気持ちになった。
生活音に慣れさせるために、できるだけ車や人通りが多い通りを選んでゆっくりと歩いた。
福はときどき、恐る恐るトートバッグから顔をのぞかせてあたりを不安そうに見回した。この世界は、いったいどんなふうに見えているんだろう。
本記事は『妻が余命宣告されたとき、 僕は保護犬を飼うことにした』(風鳴舎)からの抜粋です
小林孝延(こばやし・たかのぶ)
月刊誌『ESSE』、『天然生活』ほか料理と暮らしをテーマにした雑誌の編集長を歴任。女優石田ゆり子の著作『ハニオ日記』を編集。プロデュースした料理や暮らし周りの書籍は「料理レシピ本大賞」で入賞・部門賞などを多数獲得している。2016年からは自身のインスタグラムにて保護犬、保護猫にまつわる投稿をスタート。人馴れしない保護犬福と闘病する妻そして家族との絆を記した投稿が話題となる。連載「とーさんの保護犬日記」(朝日新聞SIPPO)ほか。ムック『保護犬と暮らすということ』(扶桑社)シリーズもリリースした。初の著書『妻が余命宣告されたとき、 僕は保護犬を飼うことにした』(風鳴舎)が発売中。
インスタグラム:@takanobu_koba
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妻の末期ガン闘病中、家族は会話もしなくなり最悪の状態に。そんな中、モデルでデザイナーの雅姫さんに保護犬を飼うことをすすめられ出会ったのが「福」だった。編集者・小林孝延さんの「福」との出会いと日々を「福」の写真とともに綴った家族の物語。