(『天然生活』2022年12月号掲載)
時間を積み重ねる大切さを自然が教えてくれました
店を囲む庭には、さまざまな花や草、木々がのびのびと育ち、心地よい風が吹いています。その風景を見ながら、萩尾エリ子さんがいいました。
「お店を始めたころ、ここには石がたくさんあって、植物があまり育たなかったの。それがいまでは、こんなに豊かな森になった。植物が時間をかけてくれたのね」
蓼科の森の中に萩尾さんがハーブ専門店「蓼科ハーバルノート・シンプルズ」を開いて40年。その年月は、時間と誠実に向き合うことの大切さを教えてくれる年月でもありました。

店を囲む庭には、さまざまな植物が育っている。大きなカラコギカエデの木を見上げて「この木も、ここに来たころはまだほんの小さな木だったんです」と萩尾さん
東京で生まれ育ち、会社勤めののち、青山で夫と義姉と一緒にバーを切り盛りしていた萩尾さん。店は毎晩にぎわっていたものの、「舞台装置の中にいるような感覚」がしていたといいます。
「そんなとき、たまたま蓼科に旅をしたら、空がとても広くてほっと息がつけたんです」
そうして、20代の終わりに家族で蓼科に移住。想像していなかった寒さなどに苦労しながらも、次第に自然のリズムというものを実感するようになりました。
「ここでは四季がものすごくはっきりしていて、美しい瞬間もたくさんある。でも、それはどんなに自分があせってがんばっても、その時季が来ないと見られない。これこそが生き物として心地よいリズムなんじゃないかって思ったの。目の前の時間をきちんと過ごさないと次はやって来ない。だれかにお説教されたわけではなく、季節がそのことを教えてくれたんです」
移住後しばらくして、いまの店の建物である古い小屋に出合い、子どものころからひかれてきたハーブを扱う店を開くことを決めます。
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店の建物は、もともとはこの土地に入植した開拓農家の家屋だったそう
2人の子どもを育てながら、寝る間も惜しんで本を読み漁り、ハーブの勉強を続けました。
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少しずつ集めては必死で読み漁ったハーブや植物の本。いまでも時折ひもとく。
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40数年前に知人から贈られた、イギリスのハーブ専門書。何度も開いたため、ぼろぼろに。
やがて店をオープン。途中で8年ほどレストランを経営したり、オーガニックガーデンをつくったりと、さまざまな経験を重ねてきました。
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ドライハーブやオリジナルのハーブティー、スパイスなどがぎっしりと並んだ店内。一歩中に入るとやさしい香りに心がほぐれる
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店内には、ベルギー、プラナロム社の精油が100種類以上そろう。スタッフに相談しながら希望に合ったものを選べる
「大変なこともたくさんありましたよ。レストランを開いていたときは、シェフを雇わずに自分たちで料理をつくっていたので大忙しでした。でも、経験を積んだからこそ、辛いことがあってもへこたれないような心の筋力のようなものが養われたような気がします」

天井にはいつも季節の花を吊り下げてドライフラワーに。「お店を始めたころ、夫が吊り下げるフックを取り付けてくれました」
それから40年。当初はだれも来ない日も度々あったという店は全国から人々が訪れるようになり、わずかな草木しか生えていなかった庭は、リスが遊びにやって来る豊潤な森へと成長しました。

店内にあるキッチンで、スタッフのためにお茶を淹れる萩尾さん。髪には散歩の途中で見つけた花を飾って
「私にとって、歳を重ねる喜びとは、この森が育つのを見る時間をもらえたこと。もうひとつは、お店を続けてきたことで、訪れる人がほっとひと息つけるような、だれかにとっての木陰をつくれたこと。どちらもここまで時間をつないでこなければ実現しなかったことです。若いときはつい急いだりあせったりしてしまいがちだけれど、腐葉土が堆積し、植物が芽を出すのを待つ時間というのは、きっと必要なのだと思います」
時間を味方につければ、人を支える力にもなる
お店を営むかたわら続けてきた、地元の病院にハーブガーデンをつくる活動も、もう20年以上。いまでは患者や訪れる人の憩いの場としてすっかり定着しています。
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「庭を歩くと、それだけで元気になれます」。途中、元気に咲いていたナスタチュームの花を摘んで。「サラダに入れて食べると、ピリ辛でおいしいんです」
「愚直に続けることで時間を味方につければ、自分を支える力になってくれるし、いい縁にめぐり合えることもある。この歳になって、そう実感しています」
そのために大切なのは、いま、目の前にいる人を大切に思うこと。相手の目を見て、声に耳を傾け、ユーモアを忘れず、その人を喜ばそうと全力を尽くすこと。そうすることがきっと次へとつながるはず、と萩尾さんはいいます。
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棚には萩尾さんが好きなイギリス人女性、ロウェナ・ケイドの写真。数十年にわたってひとりで石を運んで積み上げ、野外劇場をつくりあげた
それは、精神科病棟や緩和ケア病棟でボランティアをしたときや、夫や母親を看取ったときに自分自身が実感したことです。
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知人から譲り受けた椅子。「この前、張り替えに出したら100年以上前のものだとわかって。この椅子も歳を重ねてきたのね」
「もちろん、人だけでなく、動物や植物に対しても同じこと。目の前のことを一番に考える、その積み重ねによって私自身もすこやかでいられます。そして、今日一日をすこやかに過ごせたなら、もうそれで十分だと思えるんです」
目の前の人をひたすら大切にする。それが次へとつながるはずです。
年代別、あのころの私を振り返って
現在、70代の萩尾さん。これまでどんな人生を歩んできたのでしょう? 時代を振り返ることで、いまにつながる何かが見えてきそうです。
20代
結婚し、夫と義姉と青山でバーを切り盛りする日々。「本当は何がしたいんだろう?と思いつつ、よくわからずに過ごしていました。いま思うと、世間知らずよね。でも20代は、とにかく思うがままに動けばいいと思います」
30代
蓼科に移住し、東京とはまったく違う寒さや乾燥に戸惑うことも。「2人の子育てなどを通じて、命との向き合い方を覚えていった時間でした」。同時にハーブについて猛勉強し、ハーブの店「蓼科ハーバルノート」をオープン。
40代
店の近くに60席ほどのレストランを開くと同時に3,000坪のハーブガーデンをつくる。「料理も自分たちでしていたので、すごく忙しかったのですが、精神力もつきました」。ヨーロッパやアメリカなどを旅したのもこのころ。
50代
レストランを閉じ、いまの店だけに。「最初のころに戻ったつもりで立て直していきました」。冬にはハーブなどのレッスンも開催。病院でのボランティアにも力を入れるなど、充実した時期。50代半ばのときに夫が旅立つ。
60代
高齢の母親が入ったケアホームに足繁く通いつづけた。「母は音楽が好きだったので音楽をかけたり一緒に歌ったり、食事をとれないときはスープを持っていったり。母ともう一度向き合い、しっかり見送れたなと思っています」
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30代後半、店を始めたばかりのころ。スタッフと一緒に近くに畑を借りてハーブを育てていた。
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店を始めて数年目、店内で夫と一緒に。「店も軌道に乗ったとはまだまだいえないころ。“種まき”をしていた時期でしたね」
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<写真/柳原久子 取材・文/嶌 陽子>
萩尾エリ子(はぎお・えりこ)
ハーバリスト。1947年生まれ。1976年、東京から蓼科に移住。八ヶ岳山麓の自然を師に園芸、料理、染色、陶芸、クラフトを学び、ハーブショップ「蓼科ハーバルノート」を開く。諏訪中央病院にハーブガーデンを開き、園芸ボランティアやアロマケアボランティアなども行なう。著書に『香りの扉、草の椅子』(扶桑社)など。
※記事中の情報は『天然生活』本誌掲載時のものです