(『80歳。いよいよこれから私の人生』より)
楽しいことを家の中に見つける
障がい児を育てながらの暮らしでは、家の中に楽しみを見つけるのが、一番無理がありませんでした。
もし外に楽しさを求めていたら、できないことが多くてストレスがたまっていたと思います。
家の中には楽しいことがいっぱい詰まっています。変化もたくさんあります。
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25年ほど前、近所のテーラーさんから譲り受けたミシン。まだまだ現役です
元々、家仕事が好きでした。それは、子どもの頃に同居していた、祖母の影響が大きいように思います。
祖母は家仕事の達人でした。昼寝しているのを見たことがないほど働き者で、いつも何かしら手を動かしていました。
思い出すのは、縁側で縫い物をしている姿です。
当時履いていた足袋は、祖母が私たち姉妹それぞれの足の形をとって、型紙を起こして縫ってくれたもの。
足袋の底は、刺し子で補強がしてあったのを覚えています。
布団の打ち直しも祖母の仕事で、綿を洗って庭石の上に干すような重労働もしていました。私も手伝った記憶があります。
他にも味噌、梅干しなどの保存食も作っていました。庭の蔵に、大きな味噌樽が2つ入っていて、毎年味噌を仕込んでいました。
家の中にこそ豊かな時間があることを、祖母から教わりました。
部屋作りを考えるのが好き
部屋作りを考えるのも、昔から好きでした。
子どものときは姉たちがたくさんいて、自分の部屋はありませんでした。
1室に2段ベッドを2つ並べて、4人で寝ていました。勉強机は廊下に、美智子姉と並べていました。早く自分だけの部屋を持ちたいと思っていました。
中学生になると、姉たちはみな結婚するなどして外に出て行き、空き部屋がいくつもできました。
これで自分の好きなようにできる。勉強する部屋と寝る部屋を分けようと、さっそく模様替えしたことを覚えています。
この家に越してきてから、義母は家のことは私に任せてくれました。
古いものが好きな義母とは趣味が似ていたので、家具は民芸家具や骨董でそろえていきました。
とくに温かみのある民芸家具に惹かれ、値段はやや高いのですが、少しずつ買い集めました。
ダイニングキッチンの食器棚とリビングの本棚は、越してきてしばらく経った頃、セールで購入したもの。
50年近く経ちましたが、経年変化も味となり、落ち着く空間を作り出してくれています。
家の中は「時短」を優先して機能的に

家の中は機能的に整えたいと思っています。
ものはすぐに取り出し、すぐにしまえるように。家具の配置はスムーズな動線になるように。
ずっと忙しくしてきたので、何事も「時短」が優先です。
部屋を片づけておくのも、時短のため。
何かしようというとき、片づいた部屋ならさっと始められます。整理してからやろう、となると気持ちも萎えてしまうもの。
朝起きたら、すぐに朝食の準備に取りかかれるよう、台所も寝る前にきれいにしておきます。
本記事は『80歳。いよいよこれから私の人生』(すばる舎)からの抜粋です
<撮影/林ひろし>
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多良久美子(たら・くみこ)
昭和17年(1942年)長崎生まれ。8人きょうだいの末っ子。戦死した長兄以外はみな姉妹。2歳のときに被爆。翌年母を癌で亡くし、父と姉たちに育てられる。高校生のときに父の会社が倒産し、進学を断念。24歳で結婚後、4歳で麻疹により最重度知的障がいとなった息子を育てる。娘は早逝。
80歳を前に、長く携わってきた社協の仕事を引退、「障がい児・者の親の会」は相談役に。「これからは私の時間!」と、これまで忙しい日々で細切れにしかできなかった趣味の織り物やピアノに、どっぷりつかる日々。料理やインテリアなど「家時間」を楽しむのが好き。
姉は、12万部のベストセラー『87歳、古い団地で愉しむ ひとりの暮らし』(すばる舎)の多良美智子さん。
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