(『天然生活』2024年5月号掲載)
手数は抜いても気持ちは抜かない。義母から学んだ大切なこと
1970〜80年代、雑誌『私の部屋』のイラストレーターとして活躍した内藤三重子さんが、村椿菜文さんの義理の母。家に集まる人たちにならい、菜文さんは内藤さんを「ママ」と呼んでいます。
「結婚して、最初にママにいわれたのが、『家族の帰りを待つときは、家の明かりをいっぱいつけて、明るくしておきなさい』だったんです。なんて素敵な考えだろうと思って印象に残っています。ママは家族に限らず、だれに対しても出し惜しみがありません。家に来る人みんなにごはんを食べさせてくれるような人です」
内藤さんのアーティストとしての姿勢にも、出し惜しみのなさが感じられると話す菜文さん。
「たとえばママが人形をつくっているとき、すごく細かい作業を積み上げて完成間近になっていても、気に入らなければ『これじゃあダメだわ』って、あっさりとイチからやり直してしまう。作品づくりに対する、そんな妥協のない場面を何度も見ています」
家事については、内藤さんから何かいわれたことはないものの、その飾らない暮らしぶりから影響を受けてきました。
「現役時代のママは、ものすごい仕事量をこなしながら、子育てと家事をしてきたと思います。だから、うまい具合に手を抜くんですけれども、気持ちは絶対に抜きません。
たとえば、お客さんが来たときには、自分が気に入ったお皿一枚に、季節のとうもろこしなんかをゆでてのせれば『それでごちそうになるわよ』といいます。部屋の片づけも、全部が行き届いていなくても、好きな物をきれいに並べて雰囲気よく見せるのが上手です」
ママだったらどうするか?と考えるように
菜文さんは3人の子どもを育てながら、詩を書いたり、朗読したり、創作活動を続けてきました。「村椿は旧姓ですが、内藤も旧姓です。ママはあの時代の女性として、新しい道を切り拓いてきた人。そのおかげで私も旧姓を名乗りやすかった面はありますね」
内藤さん、そして義父の鎌田豊成さんは、考え方が柔軟で軽やかな行動力の持ち主。かつてふたりが若かりしころのこと。仕事でニューヨークに出かけた鎌田さんが60年代のヒッピームーブメントに衝撃を受け、内藤さんを呼び寄せたというエピソードがあります。内藤さんは1歳の長男を母に預けて、ニューヨークでともに2カ月間を過ごしたそうです。
「そんな両親だから、私が子どもを預けて関西の朗読会に参加したときも『楽しかった? よかったね』と言葉をかけてくれました。PTAや地域の活動にも理解を示してくれますし、私のすることをいつも応援してくれます」
菜文さんはいま、視覚に障害のある方のために、書籍、雑誌、新聞などを読み上げて音声にする「音訳ボランティア」をしています。
「私は子どものころから音読が大好きで、それがこんなふうに人の役に立つだなんて、天職かもしれません。無償か有償かで仕事を区別することはできないから、いろんな仕事を同時にやっていきたいと思っているところです。音訳は奥が深くて仕上がりに納得がいかないこともあります。そんなとき、『ママならきっとやり直すな』と思い出して向き合っています」
家族の思い出

菜文さんが長女を出産した際、内藤さんがお祝いでつくってくれたお雛さま。お雛さまづくりは、内藤さんのライフワークに。
〈撮影/山田耕司 取材・文/石川理恵〉
村椿菜文(むらつばき・なあや)
結婚して内藤三重子さんの義理の娘に。著書に『内藤三重子さんのこと』(アノニマ・スタジオ)、共著に『まいごのビーチサンダル』(あかね書房)があり、詩や文章を書くこと、朗読会を続けている。湘南ビーチFMでパーソナリティを務めるほか、江戸川区・浦安市のローカルフリーマガジン「AELDE」でエッセイを連載。
※ 記事中の情報は『天然生活』本誌掲載時のものです