• 14年前の大震災、原発事故を経て生まれた福祉事業所。仕事づくりを模索しつづけるなかで見いだされたものとは。小麦粉支援の申し出から始まった、小さな作業所の大きな挑戦。お菓子づくり、ミシンの手仕事、そして月に一度の「山の学校」。福祉を“開かれた場所”へと変えていく、その歩みの先にあるのは、「語り継ぐ」ということでした。
    (『天然生活』2024年6月号掲載)

    福祉事業所を開かれた場に

    「震災後、いろんな方から支援をいただいたことで、福祉の世界が、そこだけで閉ざされていたことに気づかされた」と振り返る富永さん。

    障がい者とその家族が孤立に陥りやすい社会状況は、いまなお改善されていないものの、「『しんせい』は隔離施設ではなく、より壁の低い、開かれた福祉事業所にしていきたい」と語ります。

    「しんせい」理事長の富永美保さん。ただつくって売るだけではない福祉事業所の仕事のあり方をひとつひとつかたちにしてきた

    その展望をかたちにしつつあるのが、新型コロナウイルス感染症パンデミックのさなかの2020年から、前述の「山の農園」を舞台として少しずつ活動を広げてきた「山の学校」プロジェクト。

    月に一度の開校日には、利用者のなかでも他者との交流を好むメンバーが参加し、富永さんら「しんせい」スタッフ、協働する「国立環境研究所」福島地域協働研究拠点の研究員、研修として東京から訪れる企業人たち、そして課外活動として初年度から関わりつづける県立あさか開成高校(郡山市)の生徒らがごちゃ混ぜになり、防災について議論したり、「山のにんじんカレー」の販促会議を開いたり、環境問題を学んだり、季節ごとの野山や畑をめぐったり、石釜でピザを焼いて堪能したり。

    画像: ふたりの利用者が掲げる紙しばいは、「山の学校」に参加する高校生たちが「しんせい」の歩みを物語にし、制作したもの

    ふたりの利用者が掲げる紙しばいは、「山の学校」に参加する高校生たちが「しんせい」の歩みを物語にし、制作したもの

    「障がいのある人たちは、ふだん、自信がなくて人前で発言したがらないことも多いですが、山の学校では、正解不正解のない学びが染みついているから、意外に的を射た意見が飛び出したりする」と富永さん。

    とりわけ、ここ福島県郡山市の里山をフィールドとするにあたり、原発事故による放射性物質と放射線の影響をブラックボックスに閉じ込めることなく、専門家である「国立環境研究所」の研究員の伴走を得ながら実地で計測し、知識を身につけ、正しい恐れを持って地域づくりをともに考えることは、ここであればこその学びとなっていることでしょう。

    画像: 「山の学校」では、農園の空間線量率を計測。地上1mと1cmの高さの数値を、広い敷地内で場所を替えながら記録していく

    「山の学校」では、農園の空間線量率を計測。地上1mと1cmの高さの数値を、広い敷地内で場所を替えながら記録していく

    13年前(※取材時)の事故について「記憶がほとんどない」というあさか開成高校の横田塔吾さん。

    「保育園のみんなと体育館に避難したときの保育士さんたちの形相と、親の迎えが遅くなったときの不安だけが記憶として残っている」という阿部遥那さんは、ともに「若い自分たちが語り継ぐことが必要だと思うようになった」と、前向きな視点で語ります。

    画像: 「山の学校」に参加する高校生、横田塔吾さん(左)と阿部遥那さん(右)。フレッシュな感性と好奇心が富永さんたちの刺激にも

    「山の学校」に参加する高校生、横田塔吾さん(左)と阿部遥那さん(右)。フレッシュな感性と好奇心が富永さんたちの刺激にも

    そして、震災と原発事故という困難を抱えたこの土地で、障がい者福祉のあり方を模索しつづけてきた富永さんもまた、この先の自身と「しんせい」の指針として、「語り継ぎ」の重要性を挙げます。

    「私たちは、当事者よりも少し外側に立つ目線で、非常時の動き方、仕組みのつくり方、外の力の生かし方などを見つづけてきました。それを次の世代に、次の被災地につないでいくことを、ここからの5年間でかたちにしていきます」

    しんせい
    福島県郡山市西ノ内1丁目25-2



    <撮影/星 亘 取材・文/保田さえ子>

    ※記事中の情報は『天然生活』本誌掲載時のものです



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