• 多くの犠牲者が出た戦争から、今年でちょうど80年。当時のことを聞くことができる機会も少なくなってきました。でも、だからこそ私たちは戦争の記憶を風化させず、受け継いでいく思いを新たにする必要があるのではないでしょうか。エッセイスト、絵本作家、作家の海老名香葉子さんが、辛い過去を掘り起こし、戦争で受けた苦しみや悲しみについて語ってくださいました。
    (『天然生活』2025年9月号掲載)

    兵器の原料の供出のために、大切な人形を手放したことも

    1941年12月8日、私が8歳のときです。日本はアメリカとイギリスに宣戦布告し、太平洋戦争に突入しました。その日、ラジオ放送を聴きながら3人の兄たちが「万歳! 万歳! 戦争が始まる! 日本が勝つぞ!」と声を張り上げているのを聞いて、私も何が何だかわからないまま、一生懸命に万歳をしました。

    夜はちょうちん行列に参加しましたが、花電車も通り、街中がにぎやかで、みんなが喜んでいるようでした。戦争が始まってからは、戦地にいる兵隊さんに手紙を書いたり、千人針をつくったり。兵器の原料にするための物資の供出が本格化すると、大切にしていた人形を手放したこともあります。当時、周りの多くの人がそうだったように、私も「お国のために」と心から思う愛国少女だったんです。

    ひとりで疎開する前の晩、両親と3人で寝た思い出

    戦争は次第に激しくなり、1944年、私は小学校4年生で沼津の叔母の家にひとりで疎開することになりました。沼津に行く前の晩は、父と母の間に私が入り、3人で川の字になって寝ました。

    母は「かよ子は明るい子だから大丈夫よ」といって、涙を拭っていました。父が私の頬っぺたに自分の頬を寄せてくれて、そのときにひげがくすぐったかったのも覚えています。

    疎開先では叔母の家族にもかわいがってもらい、新しい生活にはすぐになじみました。学校では授業の代わりに食糧増産のための農作業などをする日々。家族からは毎日のように手紙が来て、ときどき会いにも来てくれました。その手紙はいまも大切にとってあります。

    画像: 兄の友達と車の前で撮った1枚。海老名さんは前列左から2番目。兄たちや周りのみんなにかわいがられていた。「子ども時代はとても泣き虫でした」

    兄の友達と車の前で撮った1枚。海老名さんは前列左から2番目。兄たちや周りのみんなにかわいがられていた。「子ども時代はとても泣き虫でした」

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    天然生活2025年9月号では、海老名香葉子さんと多良美智子さんの貴重な戦争のお話を特集しています。

    戦争を忘れず、平和への祈りを紡ぐために、ぜひ誌面でもじっくりお読みください。



    〈取材・文/嶌 陽子〉

    画像: 戦後は東京に戻り、ひとり転々とする日々

    海老名香葉子(えびな・かよこ)
    1933年東京生まれ。エッセイスト 、絵本作家、作家。52年、初代・林家三平と結婚。80年三平の死後、一門の30名の弟子を支える。長男は9代目・林家正蔵、次男は2代目・林家三平、長女は海老名美どり、次女は泰葉。現在も講演会や文筆業など幅広く活躍。『うしろの正面だあれ』(金の星社)『人生起き上がりこぼし』(海竜社)など著書多数。

    ※ 記事中の情報は『天然生活』本誌掲載時のものです



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