• 多くの犠牲者が出た戦争から、今年でちょうど80年。当時のことを聞くことができる機会も少なくなってきました。でも、だからこそ私たちは戦争の記憶を風化させず、受け継いでいく思いを新たにする必要があるのではないでしょうか。エッセイスト、絵本作家、作家の海老名香葉子さんが、辛い過去を掘り起こし、戦争で受けた苦しみや悲しみについて語ってくださいました。
    (『天然生活』2025年9月号掲載)

    戦後は東京に戻り、ひとり転々とする日々

    その後、私は叔父の転勤先である能登半島の穴水に行き、そこで終戦を知りました。穴水は谷川の水がきれいな心和む土地で、村の人々もやさしくしてくれ、私の心のふるさとになりました。でも、叔母の家族も生活に余裕がなくなって私の面倒を見られなくなったため、私は東京に戻り、ひとり転々としました。

    やがて父のお客さまだった落語家の三遊亭金馬師匠に再会。「うちの子になりなよ」といってもらい養女になり、その後亡くなった夫、林家三平と出会い結婚したのです。

    以来、4人の子どもや夫の弟子たちに囲まれ、子どものころに味わった「大人数で食卓を囲む幸せ」を思い出すこともできました。

    それでも戦争で家族を亡くした悲しみや、犠牲になった多くの人々、戦争の苦しみをいまだに受けている人のことを忘れたことはありません。

    子ども時代の友達との遊び、隣近所の様子、そして家族との日々……。何気ない日常でしたが、振り返るたびに「幸せだったな」と思います。そうした幸せが一瞬にして奪われた、その気持ちは本当にやりきれないものです。

    画像: 家族と一緒の1枚。前列右から父、海老名さん、長兄、次兄。前列左から二番目が三兄。後列左端が母、その隣が祖母。東京大空襲で三兄以外を亡くす

    家族と一緒の1枚。前列右から父、海老名さん、長兄、次兄。前列左から二番目が三兄。後列左端が母、その隣が祖母。東京大空襲で三兄以外を亡くす

    あのときの私のような子どもを二度とつくらないために。そんな思いを込め、20年前に私財を投じて東京大空襲の犠牲者の慰霊碑を上野の寛永寺に、平和の母子像を上野公園に建てました。毎年3月9日には犠牲者を追悼し、平和を願う「時忘れじの集い」を開いています。

    世界を見渡せば、いまだに各地で戦争が起きている。これはとても悲しいことです。世界中のみんなが仲良く暮らせるよう、小さな声でも上げつづけなければなりません。戦争を知らない世代のためにも、その悲惨さや愚かさ、平和の尊さを語りつづけていくことが私の使命だと思っています。

    画像: 上野公園内に私財を投じて建てた平和の母子像の前で。毎年3月9日に「時忘れじの集い」を開催

    上野公園内に私財を投じて建てた平和の母子像の前で。毎年3月9日に「時忘れじの集い」を開催

    海老名さんと戦争

    1939年(昭和14年) 第二次世界大戦始まる

    1941年(昭和16年) 12月8日/太平洋戦争始まる

    1942年(昭和17年) 東京に初の空襲

    1944年(昭和19年) 沼津の親戚へ縁故疎開

    1945年(昭和20年) 東京大空襲/三兄以外の家族6人を亡くす

              8月6日 広島原爆投下

              8月9日 長崎原爆投下

              8月15日 終戦

    * * *

    天然生活2025年9月号では、海老名香葉子さんと多良美智子さんの貴重な戦争のお話を特集しています。

    戦争を忘れず、平和への祈りを紡ぐために、ぜひ誌面でもじっくりお読みください。



    〈取材・文/嶌 陽子〉

    画像: 戦後は東京に戻り、ひとり転々とする日々

    海老名香葉子(えびな・かよこ)
    1933年東京生まれ。エッセイスト 、絵本作家、作家。52年、初代・林家三平と結婚。80年三平の死後、一門の30名の弟子を支える。長男は9代目・林家正蔵、次男は2代目・林家三平、長女は海老名美どり、次女は泰葉。現在も講演会や文筆業など幅広く活躍。『うしろの正面だあれ』(金の星社)『人生起き上がりこぼし』(海竜社)など著書多数。

    ※ 記事中の情報は『天然生活』本誌掲載時のものです



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