• 多くの犠牲者が出た戦争から、今年でちょうど80年。当時のことを聞くことができる機会も少なくなってきました。でも、だからこそ私たちは戦争の記憶を風化させず、受け継いでいく思いを新たにする必要があるのではないでしょうか。エッセイスト、絵本作家、作家の海老名香葉子さんが、辛い過去を掘り起こし、戦争で受けた苦しみや悲しみについて語ってくださいました。
    (『天然生活』2025年9月号掲載)

    東京大空襲で祖母と両親、きょうだい3人を一度に失いました

    次第に空襲警報や警戒警報が毎日鳴り響くようになり、学校に行ってもすぐに帰宅することが増えてきました。ある日、帰宅命令が出て家路を急いでいたときのことです。

    突然、飛行機が低空飛行をしながら機銃掃射を始め、私は恐ろしくなり、農家の垣根に頭ごと隠れました。前を自転車で逃げていたおじさんがいたのですが、しばらくして顔を上げてみると、自転車の車輪がぐるぐる回っていて、周りに血が広がっていたのです。怖くて怖くて、叔母さんの家に逃げ帰りました。

    1945年3月9日。この日は夜になっても空襲警報が解除にならず、数えきれないほどのB29が駿河湾上空を通って東京方面に飛んで行くのが見えました。凍てつくような寒さのなか、退避命令が出て叔母たちと一緒に香貫山を登りました。

    真夜中に「東京の空が赤いぞ!」という声がして、山の頂上近くまで登ると、墨を流したような夜空の端の方がぼうっと赤くなっていたのです。「どうか家族が無事でありますように」と一心に祈りましたが、その4日後、すぐ上の兄がぼろぼろの姿で訪ねて来て「僕は大丈夫だったけど、みんな死んじゃったんだ、ごめんね、ごめんね」と泣きながら教えてくれました。

    約10万人が犠牲になった東京大空襲で、私は祖母と両親、きょうだい3人を一度に失ったのです。

    画像: 2歳年上の3番目の兄、喜三郎さんと。喜三郎さんは空襲を生き延び、戦後、修業した末に亡き父親の後を継いで竿をつくる竿師となった

    2歳年上の3番目の兄、喜三郎さんと。喜三郎さんは空襲を生き延び、戦後、修業した末に亡き父親の後を継いで竿をつくる竿師となった

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    天然生活2025年9月号では、海老名香葉子さんと多良美智子さんの貴重な戦争のお話を特集しています。

    戦争を忘れず、平和への祈りを紡ぐために、ぜひ誌面でもじっくりお読みください。



    〈取材・文/嶌 陽子〉

    画像: 戦後は東京に戻り、ひとり転々とする日々

    海老名香葉子(えびな・かよこ)
    1933年東京生まれ。エッセイスト 、絵本作家、作家。52年、初代・林家三平と結婚。80年三平の死後、一門の30名の弟子を支える。長男は9代目・林家正蔵、次男は2代目・林家三平、長女は海老名美どり、次女は泰葉。現在も講演会や文筆業など幅広く活躍。『うしろの正面だあれ』(金の星社)『人生起き上がりこぼし』(海竜社)など著書多数。

    ※ 記事中の情報は『天然生活』本誌掲載時のものです



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