• 多くの犠牲者が出た戦争から、今年でちょうど80年。当時のことを聞くことができる機会も少なくなってきました。でも、だからこそ私たちは戦争の記憶を風化させず、受け継いでいく思いを新たにする必要があるのではないでしょうか。ユーチューバーの多良美智子さんが、辛い過去を掘り起こし、戦争で受けた苦しみや悲しみについて語ってくださいました。
    (『天然生活』2025年9月号掲載)

    戦後は食料が不足。米がわずかなおかゆをすする日々

    8月15日、疎開先の村長さんの家にみんなが集められ、ラジオの玉音放送で終戦を知りました。

    その時真っ先に思ったのは「これで電気をつけてごはんを食べられる」ということ。戦時中は電気の傘に黒い布をかけていたので、これからは明るいところで食事ができるんだと思うとうれしかったです。

    長崎の家に戻ったのは、その後1カ月ほどしてから。学校も再開し、同級生の何人かが亡くなったことを知りました。中学校に上がったときには被爆により髪の毛が全部抜けた人もいて、本当に気の毒でした。

    また、ひもじさは戦後の方が辛かったです。食料はすべて配給制。お米がお茶碗の底の方にしか見えないおかゆをすする毎日で、これがいつまで続くんだろうと思ったものです。

    いつもおなかを空かせていて、「いつかふっくらしたあんパンを好きなだけ食べたい」と思っていました。後に、ようやくあんパンを食べられたときのおいしさは忘れられません。

    一番上の兄は戦死し、母も終戦の翌年に子宮がんを患い、42歳で亡くなりました。被爆によるものだったのかはいまもわかりません。

    その後、父はひとりで私たち姉妹を育ててくれました。

    画像: 多良さんの実家は長崎で果物の卸などをしていた商家だった。店番をする母親(右)。「左は近所のお店の人かしら? 懐かしい母の笑顔です」

    多良さんの実家は長崎で果物の卸などをしていた商家だった。店番をする母親(右)。「左は近所のお店の人かしら? 懐かしい母の笑顔です」

    戦後、長崎にも進駐軍が入ってきて、街でアメリカ兵の姿を見かけるようになりました。

    雪がちらつく寒い日、わが家の玄関の前で立ったままサンドイッチを食べている若い兵士がいました。父は彼を家の中に招き入れ「ストーブの前で食べなさい」と勧めたのです。

    それ以来、その兵士はときどきわが家に遊びに来るようになりました。いま思うと、父はその兵士に戦死した兄を重ねていたのかもしれません。

    兄の命を奪った国の兵士だというのに、父はそんなことはひと言もいいませんでした。

    相手を「国」ではなく、ひとりの人間として見ていたのでしょう。国対国ではない、人間対人間の関係からは、決して戦争は起こらないと思います。

    いまも戦争のニュースを見るたびに、身を切られるような思いを抱きます。

    人の命を奪い、文化財を破壊する戦争は1日でも早くやめてほしい。

    文化や芸術を通じて世界中の人々が仲良くなることを願ってやみません。

    多良さんと戦争

    1939年(昭和14年) 第二次世界大戦始まる

    1941年(昭和16年) 12月8日 太平洋戦争始まる

    1944年(昭和19年) 縁故疎開で長崎市郊外へ

    1945年(昭和20年) 8月6日 広島原爆投下

              8月9日 長崎原爆投下

              8月15日 終戦

    * * *

    天然生活2025年9月号では、海老名香葉子さんと多良美智子さんの貴重な戦争のお話を特集しています。

    戦争を忘れず、平和への祈りを紡ぐために、ぜひ誌面でもじっくりお読みください。



    <撮影/林ひろし、馬場わかな 取材・文/嶌 陽子>

    多良美智子(たら・みちこ)
    1934年長崎生まれ。2020年に当時中学生だった孫と始めたYouTube「Earthおばあちゃんねる」では、日々の暮らしや料理をアップし、登録者数17万人を超える大人気チャンネルに。お元気シニアの代表として、多くの同世代や後輩世代に支持されている。著書に『90年、無理をしない生き方』『88歳ひとり暮らしの 元気をつくる台所』(ともにすばる舎)など。

    ※記事中の情報は『天然生活』本誌掲載時のものです



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