(『天然生活』2025年4月号掲載)
母から学んだ、生きるための知恵
1927年、ミサオさんは4人兄弟の末っ子、三女として北津軽に生まれます。母のおなかにいるときに父は他界し、兄や姉たちは小学校を終えると子守り奉公に上がり、母とのふたり暮らしの日々を送ります。
生活は苦しく、母は頼まれた着物を縫ったり、農作業の手伝いをしながら糧を得ていました。
「母は無学だったの。昔はそういう時代で」
だからミサオさんが小学校に上がると、「今日、なに覚えてきた?」「あいうえおの字を覚えてきた」「それ、どう書くの?」と母に聞かれて、ひらがなを教えたのです。
それから母は毎晩、字の綴りを練習し、カタカナも習得してしまいます。

アルバムには母の写真。「母はいつも明るい人だった。学校に行くよりも母とふたりでいる時間がほんとに楽しかった」
生活に必要なものは自分の手でなんでも器用につくり、料理をこしらえるのも上手な人でした。
そんな母は、まだ小さいミサオさんに「1を聞いたら10を知りなさい」「知らないことは恥ずかしくないからだれにでも聞きなさい」「十本の指は黄金の山だよ」と、人生指南となる言葉をよく語って聞かせたといいます。
病と貧しさを乗り越えて
ミサオさんが結婚したのは19歳。夫は戦地でマラリアに感染し、ガリガリに痩せて帰ってきました。
ふたりの子どもに恵まれますがふたり目を出産後、ミサオさんは肋膜炎に。
当時、死の病と呼ばれ、医者からは助からないと告げられます。
「息をすることさえもつらくて、それは大変な苦しみだった」
3年ほど寝込み、人の紹介で弘前大学付属の農場で働くようになりますが、生活はきびしいまま。
おまけに冬場は仕事がなくなり、子どもの学費を工面するために一大決心をして編み機をローンで購入します。
編み方を教わり、そこに独自の工夫をプラスして編んだセーターが評判となり、応じきれないほどの注文が入るようになったのです。
「仕事が仕事を教えてくれる。だから、一生懸命やりなさい」、夜なべしながら母の言葉を思い出しました。
真剣に仕事に向き合えば、何か見えてくるものがある。
経験から得た母の言葉は、生きるよりどころとなってミサオさんを支えたのです。
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<撮影/衛藤キヨコ 構成・文/水野恵美子>
桑田ミサオ(くわた・みさお)
1927年青森県・津軽生まれ。保育園の用務員を退職後、60歳から農協の無人販売所で販売する笹餅をつくり始める。山に分け入って笹の葉を採り、材料のこしあんから全て手づくりする笹餅は、またたくまにおいしいと評判となり、75歳で本格的に起業。79歳で津軽鉄道「ストーブ列車」に乗りながら、車内販売を始めると、「ミサオばあちゃんの笹餅」として注目を集める。2020年には、NHK「プロフェッショナル 仕事の流儀」に、「たった一人で年間5万個の笹餅を作り続ける職人」として取り上げられる。平成22年度農山漁村女性・シニア活動表彰 農林水産大臣賞受賞。令和3年春の勲章 旭日単光章受賞。95歳で笹餅づくりを引退する。
※記事中の情報は『天然生活』本誌掲載時のものです