田んぼの真ん中で考えたこと
富山県立山町の巣巣のあるこのあたりは、一面田んぼの稲作地帯です。
北アルプスの麓なので、なだらかな傾斜地ではありますが、広々した田んぼが続いています。
3月下旬にここに来てから、刻々と変化する美しい風景をたくさん見ました。
4月、遅い雪で覆われた一日だけの雪景色。
5月、田植えの準備が始まり、トラクターで次々と起こされていく田。土の香りが立ちのぼりました。
やがて水が張られ、ひと時の水鏡に映る夕焼けの空。
田植えがはじまり、きっちり等間隔に稲の苗は植えられ、あっという間に苗はぐいぐいと成長し、青々とした田んぼになって行きました。
今年は長雨と日照不足が心配されましたが、それでも8月なかば頃からはちゃんとお米の花は咲き、稲穂が稔り、次第に穂先が重くなってこうべを垂れていきます。
その間に何度も刈り払い機であぜ道の草刈り。用水路の点検や清掃。肥料を足したり、病気が出ていないか見回ったり。いろいろな作業が続きます。
9月に入ると、米は十分に育ち、田は黄金色に輝き始め、早場米から稲刈りが始まりました。
どの瞬間も美しく、散歩の途中で何度もカメラを向けました。
稲刈りが始まると、新米を待っている遠くの家族に送るのでしょうか、郵便局に20キロ、30キロの米袋を何袋も持ち込む人をたくさん見かけました。
私はほぼ毎日、昼夜主食にお米を食べています。
ご飯大好き。私の食生活にお米は欠かせないものです。
茨城のお米農家の友人のところで、田植えや稲刈り体験などをさせてもらったこともありました。しかしここまで日々身近に稲作の様子を見ながら暮らしたのは初めてでした。
何枚も何枚も連なる田んぼ、それぞれ持ち主や耕作者が違います。
でも稲作に欠かせない、田に水を引くための用水路は共同で管理をしています。
おそらく何代も前から近隣の農家皆の共有のものとして整備されて来たのでしょう。
これまで、お米は当たり前にスーパーにあって、必要な時に買えるものだと思っていました。とくにそれ以上は深く考えたことがなかったです。
毎日田んぼを見ていたら、急に稲作の歴史が気になって調べてみました。
ささっとネットで調べただけでも、日本の歴史=稲作の歴史と言ってもいいぐらいに、我々日本人と稲作には密接な関係があるということを知りました。
まごうことなき農耕民族として何千年も生きて来たものたちの子孫なのですね、私たちは。
今まで意識したことがまったくなかったです。
日本の歴史のスタート地点である石器時代に穀物の栽培が始まり、定住して生活するようになりました。
1万2千年前くらいから始まった縄文時代に、栽培に適したジャポニカ米がいろいろなルートで大陸から伝わり、余剰が生まれ、社会が生まれ、次第にそれが国という形に発展していったそうです。
今私たちが食べているお米のDNAもその頃から脈々と伝わってきているものなのでしょう。
お米が日本の歴史の中で重要な役割となり得たのは、保存がきいて、栄養価も高いという素晴らしいメリットがあったからだそうです。
どの時代のご先祖たちも、お米をたくさん収穫するために、田を広げ、治水に取り組み、農機具を工夫し、自然環境に寄り添って生きてきました。
栄養が取れるようになったので人口が増え、集落ができ、人々を統制するために政(まつりごと)が必要になっていったようです。今に続く農耕民族的政治のはじまりです。
私たちの身体も、欧米人に比べて腸が長いという、穀物食に適応したものになっています。とはいえ、庶民がお米をお腹いっぱい食べられるようになったのはつい最近のことだそうですが。
こうして、長い長い年月、農耕民族としてお米・稲作とともに生きてきた私たちですが、今新たな転換期が来ているのではないかと思いました。
稲作の担い手の高齢化と後継者不足。産業構造の変化。そしてお米の消費量の減少。
時代の変化とともに、社会が変わっていくのはいたしかたないことではあります。この辺りでも、稲作が続けられなくなるケースを、この短い期間の間でも何件か耳にしました。
しかし稲作は意識して残さなくてはならない産業なのではないかと思うのです。
長い間守ってきたこの水田というシステム。一度衰退してしまったら、復興するのは本当に大変なことだと思います。
ではどうしたらいいのでしょうか?
すぐに解決するのは難しいと思いますが、みんながこれまでよりも少しお米を多く食べて、たくさん消費するところか初めてみませんか?
岩崎 朋子(いわさき・ともこ)
巣巣店主。世田谷区等々力で16年続けた家具と雑貨の店を2018年に閉店し、2020年6月富山県立山町で再オープン。New巣巣は雑貨を中心としたお茶も飲めるお店。バンド「草とten shoes」リーダー。
<撮影/池田あかね(プロフィール写真)>