団地案内人
川添大輔(かわぞえ・だいすけ)
団地マニア歴26年の『天然生活』編集部員。
中学時代に暮らした社宅の団地で、その魅力に目覚める。大学時代にはトランジットで滞在したシンガポールの“レトロフューチャー”な団地群に衝撃を受け、社会人になってからは夜な夜なカメラを持って自転車で都内の団地を巡るのが日課に。警察にマークされながらも光が丘団地に通い詰め、憧れが高じてURに入居。前職では、念願の団地本も出版。昭和30年代の歴史的団地が姿を消しつつあるいま、その姿を記録に残すことへの執念は深まるばかりだ。
無人の原野から弾薬庫を経て新しい住まいに
関根 情報が少ないと思っていた「桐ヶ丘団地」ですが、意外と見どころが多いですね。
川添 ですよね。お隣の「赤羽台団地」は軍の被服廠跡地ですが、「桐ヶ丘団地」ももとは軍の施設でした。「弾薬庫」です。
関根 かなり物騒ですね。
川添 実は、平らな「赤羽台団地」と正反対に、「桐ヶ丘団地」は起伏に富んだ地形になっています。団地の中央が一段低くなって盆地状になっているのですが、その地形が、もし弾薬が爆発事故を起こした際に、周辺への被害を食い止めるのに適していたのかな? と勝手に考えていたのですが。
関根 なるほど。
川添 さらにさかのぼると、この一帯は江戸時代に書かれた『新篇武蔵風土記』という本に、「方三里人なし」と書かれていて、そのまま解釈すると10km四方無人だったということになります。ちょっと大げさな表現と思いますが、とにかくさびれた土地だったようです。

「桐ヶ丘団地」には1棟だけですが、14階建ての高層棟も建っていました。こちらは、昭和43年度建設。起伏に富んだ敷地のためか、給水塔も複数(おそらく3基)ありました。写真の左が給水塔です
関根 その情報、どこで調べたんですか?
川添 実は、「桐ヶ丘団地」の情報があまりになかったので困りまして、北区の桐ヶ丘の再開発に関する資料をネットで見ていたら、『桐ヶ丘三十五年史』という本があることがわかったので、先週末、図書館で読んできたんですよ。
関根 団地に対する行動力すごいですね。その無人地帯が弾薬庫になったんですね。
川添 そうみたいです。戦争が終わると、外地から引き揚げてきた人たちの住居として、その弾薬庫がそのまま使われたらしいです。その名も「火薬庫住宅」と呼ばれていたのだとか。
関根 もう少し名称に気遣いがほしいところですが、そもそも弾薬庫って人が住めるものなんですか?
川添 環境はよくなかったと書かれていました。入居当初は、大きな窓のない建物を板や布で仕切って、8~10世帯が住んでいたそうです。万一の爆発に備え、周囲の弾薬庫に誘爆しないように建物と同じぐらいの高さのある土塁に囲まれていて、その土塁に設けられたレンガづくりのトンネルが通路になっていたそうです。
関根 ちょっと見てみたい気もします。

こちらは2017年の高層棟E-47号棟と給水塔です。給水塔は、塔の上のタンクに水をポンプで引き揚げ、そこから落ちる水の圧力で団地の建物の最上階まで水を送るという仕組み。ですから、給水塔がある団地では給水塔の頂上の標高が一番高くなるのです
川添 東京・三鷹に美術館を持つ世界的人気のアニメスタジオ風の世界観かもしれませんよね。迷路みたいに入り組んでいたので郵便配達の人が迷うなど、いろいろ大変なことも多かったらしいです。なかなか水道や電気が引かれず、やむなく「盗水」「盗電」をして暮らしていたと『桐ヶ丘三十五年史』に書かれていました。
関根 結構なカオス状態ですね。
川添 ただ、このころは引揚者の住宅以外は美しい田園地帯が広がっていて、都内でありながら田舎風景のロケに使える場所として重宝されていたなんて記述もありました。掲載されていた雪景色の幽玄な風景写真は、とても23区内とは思えない風情でした。
関根 別世界のようです。

その給水塔のお隣にある謎の建物。旧共産圏の建物のような、レトロフューチャー感のあるデザインが目を引きます
川添 住人たちは、ここを引き揚げ後の新生活の新たな故郷にしようと「赤羽郷」と名付け、協力しあいながら暮らしていたそうです。その名前は、桐ヶ丘団地内にあるバス停の名前として残っているんですよ。
関根 ちょっとほっこりしますね。
<撮影/川添大輔 参考文献/『桐ヶ丘三十五年史』>





