(『天然生活』2021年2月号掲載)
消費によって生を満たさない生き方
――大掛かりにものを捨てるようなブームについてどう感じますか。
藤原:捨てるだけで結局消費欲から逃れられないのなら、それはものへの執着から逃れられないということで消費者のふるまいだと思います。
その一歩先、手放したものに対する愛着の問題まで解決できるのが、分解者のふるまいです。
立派な家を建て、立派な車を持つという消費行動は、長らく自己顕示欲の表れでしたが、そういう時代は終わりました。私は、最先端は「消費によって生を満たさない生き方」だと思います。消費は大事だが、消費だけではなく、生産だけでもなく、分解も大事だと。
分解の基本は、動植物の亡きがらを食べ、出すという行為ですが、私たちの社会は、学校給食の時間を切り詰め、プロテインバーをかじって仕事をしてきました。
食べるという基本的な分解行為すら忘れ、大量生産・大量消費・大量廃棄の経済循環に身も心も捧げてきたわけです。
でも、新型コロナのこの時代、そういう社会とはもうお別れしていってもよいはずです。
もう一度、食べるという分解行為から、充実させていくべきときだと思います。
――各々が発酵させたり、繕ったり、直したりという行為が、つながっていくことに希望を感じます。
藤原:そう、分解者のネットワークをつくっていけばいいんです。
これまでの時代は、「自立」しなければならないという間違ったモデルの下で、消費によって自己顕示欲を高めてきました。
でも今回、この危機にあって、人が依存し合わずには生きていけないこと、助け合えることがどれほどの強さとなるかいうことを、私たちは痛いほどに知りましたよね。
できないことは、人に任せればいい。修理は、上手な人にやってもらえばいいし、生ごみをどうしても処理できなければ、得意な人と一緒にやってもいい。
私も含め、人はそう簡単に変わるものではありませんが、人との小さなつながりのなかで、励まし合って内側から社会を変えていけるのが、分解というモデルであると私は思うのです。
最終処分場問題とごみの越境
多くの都道府県が、排出されるごみをすべて処理できるだけの最終処分場(焼却などの中間処理を経て埋め立てを行う処理場)を有していないという問題があります。
上の絵は、神奈川県の例。
最終処分を目的とする廃棄物が、関東地方の他県にとどまらず、中部地方、北海道・東北地方にまで越境している現実が表れています。
マシンガンズ 滝沢秀一さん
ごみ回収の現場で見た!
ごみが出ること自体は、ある程度しょうがないです。でも、新品の自転車とかピカピカのタンスとかに出合うと、何だかなあとは思います。
秋には、米を捨てる人も1軒や2軒じゃないんです。新米が出てきたから捨てるんでしょうけれど……。ごみ清掃員も、8年もやっているといろいろ考えます。
引っ越しごみになると、「もういなくなるからいいや」という浅はかさですかねえ、やっかいなごみが増えます。
ポン酢の入ったびんとか、手つかずのディップとかピクルスとか……。
男性のごみも女性のごみもひどかったりすると、「どっちか止めなかったんかい!」とは思いますよね。
ごみの出し方以前に、出さずに使う努力をしてほしいなとは思います。ネットで調べれば出てきますよ、「ピクルス 大量消費」とか。僕もタルタルソースつくりましたもん。
日本のごみの埋め立て地はもう限界間近で、平均であと20年、僕の知っている自治体は8年だそうです。
自分たちがどれほどのごみを出しているのか、知ったほうがいいです。
食品なんて、事業系と生活系でほぼ半々なんですから人ごとじゃない。恵方巻きの大量廃棄をたたいていられないんです。
滝沢秀一(たきざわ・しゅういち)
1976年生まれ。お笑いコンビ・マシンガンズ(太田プロダクション所属)のツッコミ担当。本業でごみ清掃員として8年間、現場で勤務してきた経験を、妻・友紀さんの描く絵とともにつぶさに伝えたコミックが話題に。
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〈構成・文/保田さえ子 イラスト/山元かえ〉
藤原辰史(ふじはら・たつし)
京都大学人文科学研究所准教授。コロナ危機のさなかに発表した論考「パンデミックを生きる指針」が反響を呼んだ。このインタビューの糸口となった2019年の著書『分解の哲学』でサントリー学芸賞受賞。
※ 記事中の情報は『天然生活』本誌掲載時のものです