(『天然生活』2024年9月号掲載)
いつも母の言葉を感じとろうとしていた
思えば、家族と“食べる”は、いつも繋がっていました。
家庭的な味わいをもつお弁当のケータリングが注目されたのをきっかけに、現在は文筆家としても活躍する麻生要一郎さん。
料理をするきっかけとなったのは、父亡きあと、引き継いだ家業での重責に疲れ果てていた母につくった晩ごはん。味つけが好みでなかったのか、「ごめんね、今日はおなかがいっぱいなの」と幾度となく箸を置くその姿を見て、「どうしたら、好みの味になるだろう」と考えながら手を動かしました。

家業である建設会社から離れて、営んだ新島の宿「saro」。料理の腕をふるい、多くの人をもてなした日々。毎年スタッフの顔ぶれは変わっていきましたが、ひとつの食卓を囲んでいると、擬似家族のような感覚が生まれました。
春と夏は新島で、秋から冬にかけては故郷の水戸で過ごす。そんな日々を7年ほど送ったころ、思いもよらない出来事が起こります。
「母に病が見つかって。以前、患っていた乳がんの再発です。翌シーズンは建物の関係で宿の営業ができないと決まっていたこともあり、僕は宿をクローズして故郷に戻り、母を看取ることを選びました。新島で出会い、当時は母のもとで暮らしていた、猫のチョビと一緒に。
ただ、母は死を覚悟していたけれど、そのために僕が故郷に戻ることを実際は望んでいなかった。入院も、手術も退院も、すべて自分で決めて手配して、最後まで毅然としていました。母は多くを口に出さない人。だから僕はいつも、母の心を感じとろうとしてきたし、お互い言葉にすることはなくても気遣いあって生きてきました。父がいなくなってから、家業に関していろいろな苦労があり、母ひとり子ひとりでがんばってきたから……見送ったあとは呆然とするばかりで」
そんな麻生さんを、たくさんの人たちが心配し、見守っていました。その思いにこたえるように、故郷を再び離れ、チョビとともに、多くの友人が待つ東京へ。
〈撮影/杉能信介 取材・文/福山雅美 構成/鈴木麻子〉
麻生要一郎(あそう・よういちろう)
1977年、茨城・水戸市にて、手広く事業を行なう一族のひとり息子として誕生。その後、とある姉妹の養子となる。雑誌へのレシピ提供、食や暮らしに関する執筆を行い、著書に『僕の献立』『僕のいたわり飯』『365 僕のたべもの日記』(すべて光文社)など。
インスタグラム:@yoichiro_aso
※ 記事中の情報は『天然生活』本誌掲載時のものです