(『天然生活』2024年9月号掲載)
戸籍なんてただの書類。だから僕は養子に入った
病の母を看取るために、故郷へ戻った麻生要一郎さん。母を看取ったあと、故郷を再び離れ、母のもとで暮らしてた猫のチョビとともに、多くの友人が待つ東京へ。
そしてここから、少々現実離れした方向に話は進みます。

“家族”的メンバーは何人かいるけれど、中心的な4人。左から、隣のビルの設計事務所に勤務する森健佑さん、麻生さん、青山で「ヘイデンブックス」を営む林下英治さん、マンション内に設計デザイン事務所を構える笹谷崇人さん
「当時、なかなか住む場所が決められずにいると、知り合いから“お告げ”がありまして。その人には昔から、『北参道か千駄ヶ谷に縁がある』といわれていたんです。そのときに相談してもやっぱり、『北参道か千駄ヶ谷。おばあさんが見える。最終的に家賃も要らなくなる』という。なんだそりゃ?です。両親を亡くし、生家とも縁が切れ、まったく僕を縛るものがなくなったところで、“おばあさん登場”といわれても……」
そして不動産会社を介してたどり着いたのが、現在のマンション。エリアもそのものズバリです。聞けば、大家さんは老姉妹。麻生さんにしてみれば、伏線がどんどん回収されていく状態。
「出会ってまもなく、驚く提案をされるんです。突然、『養子にならない?』と。『あなた、ご両親もういないんでしょう? 私たちもなの、一緒よね』って。『いや、あなたたちもう80歳だし、そりゃそうだよ、両親いたらコワイって』とは思いつつ……それもありか、と養子に入ることを決めて」

右が姉、左が妹。東京で生まれ育ち、銀座で店を営むなど華やかに過ごした。「姉はとにかく自由。妹はほんのちょっとだけ、控えめかな」
戸籍が変わる。名字も変わる。それは、通常の感覚では実に大きな決断です。ところが麻生さんは、あっさり受け入れるのです。
「実は僕自身、一回養子に入っているんですよ。父が亡くなったときに母の戸籍から抜かれて、祖父の養子に入った。まあ、遺産のあれこれの関係らしいのですが。だから、戸籍に関しては、単に“ペーパー上のもの”という意識だったんです。戸籍上は離れても、僕と母は間違いなく、家族でしたし」
姉妹の願いは、このマンションを継いでほしいということ。親しくしている親戚もほとんどなく、顔もわからない人に相続されるくらいなら自分が見つけただれかに、生まれ育ったこの土地を託したいと考えていたのです。ここでひとつ残っていた“家賃が要らなくなる”の伏線も意外なかたちで回収。
姉妹は何もいいませんでしたが、麻生さんは養子を承諾したことで覚悟はしていました。「ああ、介護というかたちで、彼女たちの面倒を見ることになるのだな」と。
「面白いのは、僕はそう考えていたにしても、彼女たちにはその気持ちは全然なかったということ。後に介護が必要になったとき、『ごめんね、こんなことになるなら養子なんてやめておけばよかった』なんていっていましたし。当時はあくまでもあっけらかんと、『あなたにこのマンションをあげる。でも、そんなに重く考えないで。困ったら、さっさと売っちゃって好きなようにしていいから!』なんてどこまでも気楽な提案で」
〈撮影/杉能信介 取材・文/福山雅美 構成/鈴木麻子〉
麻生要一郎(あそう・よういちろう)
1977年、茨城・水戸市にて、手広く事業を行なう一族のひとり息子として誕生。その後、とある姉妹の養子となる。雑誌へのレシピ提供、食や暮らしに関する執筆を行い、著書に『僕の献立』『僕のいたわり飯』『365 僕のたべもの日記』(すべて光文社)など。
インスタグラム:@yoichiro_aso
※ 記事中の情報は『天然生活』本誌掲載時のものです